平薬(ヒラクス)とは、薬玉の付いた平たい飾り物の略で、有職造花で飾った籐の輪の上部等に、七宝編みで包んだ薬玉を付け、それによって邪気を祓うのが本来の目的なのです。
しかし、何といっても室内装飾の役割が強く、季節ごとに花を替えたり、一年中飾れるように十二ヶ月の花を構成したり、和歌に取材された花鳥を配したりと、様々な平薬が作られたようで、御所にもその図案が残されていました。
また、代表的な文様である『花の丸』のように、薬玉を省いた有職造花の輪もまた、平薬と呼んでいます。
五節句、即ち人日(1/7)→雪かぶり根引き若松、上巳(3/3)→桜橘、端午(5/5)→菖蒲、七夕(7/7)→笹竹に短冊、重陽(9/9)→菊を、左回りに構成した図案から作ったのです。
これは『節供の有職造花』に載せた『五節句の平薬』に続いての作ですが、二度目のことで多少アレンジしたため、下花も柳と紅梅の組み合わせにして、柔らかな色を添えてみたのです。
七夕に下がる5枚の短冊は、王朝継ぎ紙という伝統工芸です。
ごく薄い色和紙を少しずつずらしながら貼り重ねるのですが、根気と手間が掛かる上に、色目や構成に王朝の香りが再現されなければなりません。
それには高いセンスが要求されますから、この伝統工芸も有職造花同様、滅びゆく速度を増すばかりのようです。
葉書大の王朝継ぎ紙から、良いとこ取りして使ってあります。
初春
縁起物である若松、紅白南天、藪柑子(ヤブコウジ)を使って、正月に飾れる平薬を作ってみたのです。
決して成功したとは申せませんが、五色糸仕立てにすると、華やかな色彩が加わることで、一気に寿ぎの様相が強まります。
スガ糸を染めて作る若松は、その下拵えが非常に厄介で制作には積極的になれないものの、出来上がりの清々しさは格別のものがある有職造花です。
一度はこの松での立木を作ってみたいのですが、有職造花の立木というのはあまりにも保管に嵩張るので、どうしても二の足を踏まざるを得ません。
蝋梅
一度蝋梅に挑戦してみたかったのですが、木彫り彩色の鳥と有職造花のコラボでそれが叶いました。
ウソという鳥とで、春先の平薬を作ってみたのです。
蝋梅は、あたかも蝋を塗ったような質感の花びらですから、裏打ちをせずに糊とドウサを引くだけにしてあります。
ウソという鳥は、喉元の赤や体の薄藍色の組合せが何とも可愛らしい鳥ですが、そのポーズも色合いも、上村松篁さんの絵から拝借しました。
白梅に鶯
平薬の場合、左右の重さを揃えないと輪が傾いてしまうため、片側にモチーフを寄せた洒落た構図ほど、重心が偏ってしまっていけません。
自然木を使う時ほどそれは顕著で、そうした制約を感じさせずに月並みに陥らない構図を目指さなくてはなりませんからなかなか厄介なのですが、だからこそ面白いということにもなるでしょう。
鶯は木彫り彩色。
二色の梅が満開に咲く中、一羽の鶯が花をついばむ様ですが、梅は自然に咲くままを造花に写しても様にならないもので、自然と作り事の融合が必要です。
松に梅
松に梅の平薬との依頼からして、随分な玄人好みに思いましたから、ならば梅は白梅だけでと即座に決めました。
松に見立てる梅の古木に、とても良い曲がりの物があったのを幸いに老松に仕立て、ゴテゴテさせないように松と白梅を植え付け、より日本画のように彩色して、絵から抜け出したような木彫りの鶯を止まらせて完成としました。
椿咲く
長年、長短の葉を密集させた小枝を繁らせる笹竹に魅せられて来たのですが、それをやっと作ったのです。
竹山の茂みに見え隠れする椿の花という光景には、やはり通常の孟宗竹の葉の方が相応しかったように思いますが、ともかく想い続けて来た竹に仕上げられたことには、出来不出来はともかく、格別なものがあったのです。
竹筒は、その節を活かしたくて、本物の真竹を彩色して使ってあります。
春鶯囀
今まで何度か、梅に鶯というモチーフで早春の平薬を作っては来たのですが、今回は咲き乱れる紅梅白梅を上から眺めたようなアングルにして、鶯も一番上に止まらせ、2色の梅を見下ろさせてみたのです。
今風の言い方をするなら、ドローン視点というところでしょうか。
鶯は、写実から離れた様式的な姿と彩色にして、料亭の設えに相応しいような、華やかな飾り物に徹したのです。
河柳
ずっと猫柳を作りたくていたのですが、難関の花穂は真綿を針金に巻き付けることで叶いました。
河柳は、花穂を覆っていた赤茶の表皮が弾けたり残されたりも猫柳同様の上、枝の先端に僅かな赤みを帯びた4、5枚の葉がある柳ですから、平薬の構成にはより相応しかったのです。
小さな芽は、赤茶と黒茶の絹を直径3mm程の丸に切り出し、鏝で膨らませた4つをピンセットで貼り付けてあります。。
初菫
制作には、実物のある時が最も相応しく、その季節の有職造花を作るというのが理にも叶う事でしょう。
私も季節に突き動かされて制作に至るという事が多く、枯野の身近な今の内に、もう一つごくごく浅い春の兆しの平薬を作りたいと思いました。
枯れて乾燥しきったススキは、丸まった穂が造形的にとても面白いのです。
枯野の片隅、突き刺さった杭の足下に健気に春を告げているオオイヌノフグリながら、そこに止まったホオジロはススキの根本に小さく咲いた菫(スミレ)を見つけ出したという設定です。
辛夷(こぶし)
未だ春浅く殺風景な山野に、突然ほのかに薄黄色の花を咲かせる辛夷ですが、決して枯山に鮮やかな程でなかろうと、確実に春の訪れを知らせてくれる待ち遠しい花なのです。
そんな花の中に、深い青色の羽色で長い尾に白のアクセントを見せるヤマムスメという野鳥を組み合わせたら、きっと相乗効果を生み出す平薬が出来るだろうと作り始めたのでした。
辛夷の見映えに重要な雄蕊は、1㎜にも満たない太さに切った木片を5㎜程に切って、萼の土台に植え付けてから彩色してあります。この方法は、有職造花としての様式化に繋がる仕上がりになりました。
辛夷の葉が出るのは花も終わる頃のようですから、やがて現れる若葉を象徴する意図と色彩配分から、直径30cmの籐の環に若葉の色に染めた絹を巻いたのです。
松に椿
京舞井上流の扇には、紅白の椿と薄紅ぼかしの椿、そして松葉が描かれていますが、名取り披露ではそれらを染め抜いた留袖を着て舞うのが決まりとのこと。
この平薬はそれにあやかった仕様で、下がった松の間から三種の椿が顔を覗かせているという設定です。
今回は、様式的でありながらよりリアルな椿を目指した鏝当てにしたのですが、この方が、花びらの美しさが引き出せたように思います。
非常に満足した出来で、気に入ったものが納品出来る喜びには、やはり一入のものがあります。
連翹(レンギョウ)
臘梅・万作・三椏・水仙・菜の花・タンポポ等々、春先の花に黄色が多く見られるのは何故なのでしょう。
連翹もまた、若葉の黄緑色とのコントラストも鮮やかに、春の光を独占したかのような、輝くばかりの黄色を咲かせます。
福島の山奥にある、木賊温泉井筒屋旅館の連翹は、宿に続く坂道の下を流れる川に、2メートルも垂れて咲くのですが、それを想って構成しました。
2羽のウソを、400ほどの花に埋めてみました。
椿に孔雀
白孔雀の平薬と対になるものをとの依頼でした。
花鳥画に描かれた孔雀と実物の写真を元にして、写実に囚われない飾り物としての装飾性を重視して彩色しました。
緑に見立てた孔雀の羽根ですが、深緑と赤みがかった茶色が斑になって染まってしまったものを、見る角度で変わる孔雀の羽根ならではの特徴のようにして利用したのです。
先端の丸い文様は茶・水色・群青・濃紺という4種類の絹を貼り合わせてあります。
落椿
落椿が地面を覆う光景を平薬にしたのです。平薬の平面を真上から見る地面に見立てるという冒険でした。
若草色に染めた絹サテンを薄板に貼り、草の萌え出た早春の地面として籐の輪に据え付け、そこに落椿を構成したのです。
しかし、花だけでは頼り無いため、キビタキ1羽を置いたり、全体の色彩を引き締めるため、和紙の葉裏を強調した濃緑の葉も散らしたりしたのですが、とても楽しんだ制作だったものの、無理は否めなかったようです。
桃花にオナガ
珍しく、木彫り彩色の鳥を一番手前にして構成したのです。
桃花は瓶子の口花として作っただけで、平薬に仕立てたのは今回が初めてでした。桃の枝振りに、どこか自信が持てなかったのです。
花数は52程ですが、八重のため倍の用意が必要です。
オナガを作るのは、葉木蓮に組み合わせて以来二度目でしたが、羽根の構造がハッキリしていて、彫るにも彩色するにも楽しんで作れます。
オナガの青、花の濃桃、葉の鮮緑という組み合わせが良く、大きく空けた下半円も五色糸を際立たせるのに役だって、上手くまとまったように思っています。
菜の花
春の長閑さの象徴のような菜の花の黄色には、幾つになってもすっかり和まされてしまいます。
私は種の入ったサヤも好きで、これは巻いた絹糸で出来ています。ピンセットで1本ずつ、角度を調整するのです。
菜の花のパーツ作りは何ということもないのですが、平薬に構成するとなると難儀しました。
何かと組み合わせようかとも考えたのですが、一向に思い付きませんでした。
しかし、そもそも野にある菜の花など、作為なく群れ咲いているのが良いのですし、演出など無用なのでしょう。
都爛漫
どう作ったところで桜は桜なのですから、構成が決め手となります。
オリジナル十二ヶ月平薬の依頼があった時、四月の桜は見上げる枝をと考えましたが、丁度赤い御簾に見立てられる材料を見つけ、上等の金襴を貼って使ったのです。
都の春とて御殿の庭は一際華やかに、何処からともなく楽の音が流れてきそうな光景になりましたので、「都爛漫」と名づけました。
尚、実際には左下の枝は殆ど輪からはみ出ていません。
桜
上から下に伸びる枝に花を咲かせた、連作です。
初めて、暈し、ピンク①②、白①②と、5種類の花色にして組み合わせながら、最初は葉のない桜で作り始めたものの、どうも単調になって様にならず、後から明るい色の葉を加えたのです。
葉によって、花色や花の塊まで強調された絵画的な構図になり、桜ならでは、桜の季節ならではの抒情とでもいうべきものも漂ったように思います。
落花
そもそもは、瓦屋根を作ってみたくてのプランでした。
福田平八郎の『雨』という名作にあやかり、梅雨入りの平薬にしたかったのですが、青梅の枝を瓦屋根の手前に繁らせるのが構造的に無理で、桜を散らしたのです。
とにかく、立体の瓦屋根をどうやって直径30㎝の輪の中に収まっているように見せるかが、最大の問題でした。
無理はありますが、制作に癒されながら出来上がった、変わり種の平薬です。
山吹
突然のように魅せられた一重の山吹を作りました。有職造花で作る山吹だと、花も葉も、実は抜き型や鏝当てが山桜とまるで同じなのですが、色が違うだけでこんなにも変わってしまいます。
太い幹を持たずにたわんで咲く山吹の構成は非常に難儀で、とうとう扱いきれませんでした。
最初から木彫り彩色した野鳥とのコラボを考えていたのですが、今回はノゴマという野鳥です。
喉が赤い羽毛で覆われて、目の上には眉のように真っ白な羽根が生えているのも可愛らしい野鳥です。
そのノゴマの目の先に、一頭の蝶も置きました。
羽根は紙、僅かに12㎜の胴は木彫りですが、岩絵の具で彩色してあります。
粒子の粗い岩絵の具での彩色は、鱗粉の表現にピッタリだったようです。
筍に雀
筍の平薬を作りたくての制作でしたが、勿論有職造花での筍作りは初挑戦でした。
折も折、まさに思い描いていたような長短2本の筍が竹林に立った自撮り画像を送って下さった方があり、初挑戦は難なくクリア出来たのです。
ポーズの違う5羽の雀は、木彫り彩色。
筍の皮は、薄めの茶に染めた生地に焦げ茶の染料を後刺しして、鏝当て。
瑞々しい先端の芽は、薄草色の生地に鏝当てを施してから、葉の先端に貼り付けてあります。
山桜に雀
復元の平薬制作で木彫り彩色しながら使わなかった千鳥に少し手を加え、雀に改作して遊んでいたら面白くなり、木っ端でもう一羽作ったのも非常に可愛らしかったものですから、それらを何とか活かしたくて作った平薬なのです。
山桜と山吹を組み合わせた春の平薬を作ろうかと、山桜の葉を沢山作ってあったものですから、以前から好きだった渡辺省亭の『桜と雀』という絵を思い浮かべられるような山桜の枝振りにして、そこに二羽の雀を止まらせたり飛ばせたりすることにしたのです。山桜のことでもあり、葉に挿した紅も鮮やかでしたので、花びらは白のままにして、細かい縮緬のような生地の光沢や質感を活かしました。楽しく囀る声まで聞こえそうで、とてもお気に入りの平薬になりました。
木蓮とオナガ
表は赤紫でも裏は白という木蓮が好きで、もう何年も前から作りたくていながら、裏は殆どが裏打ちの和紙のままである有職造花のため、花びらの裏を引き立てる方法を考えあぐねているうち、花が終わってしまうという繰り返しをしていたのです。
そのうち、芽吹く瑞々しい葉と太めの小枝が見せる緩やかな曲線に惹かれるようになり、すると花びら制作に対する身構えのようなものが薄れてしまい、それこそ気楽に葉と花が揃う時期の木蓮制作に取り掛かれたのでした。
花びらの裏は、寸法で切り出した花びらの一枚一枚に、極く細かい縮緬のような厚手の絹を貼り付けることで解決したのです。
この平薬にコラボさせたのは、オナガという野鳥です。長い尾っぽも装飾的に仕上げてありますが、首を回し傾ける、鳥ならではの愛らしい動作の再現こそ、私にとって木彫り彩色の一番の楽しみなのです。
山藤
五月初めの里山に美しい花を咲かせる山藤といったら、それを有職造花で再現出来たならどれほど素晴らしいかと、毎年思わされてしまうのです。
逞しく蔓を伸ばし、瑞々しく明るい黄緑の葉を生い茂らせた中に、薄水色の花房をたわわに垂らす山藤ですが、針金を芯とする有職造花の花房では、なかなか自然界のようには出来ません。
隣の花房と絡まないよう、片側に花を寄せたりしながら、五つの花房は風や振動に揺れるように作ってあります。
御幣
そもそも私は猿嫌いですから、猿の木彫り彩色は思い掛けずに出来たもので、それに御幣を持たせたのも突然の思いつきなのでした。
どこで拾ったのか、御幣を握り締めた猿は、横に張り出した山桜の幹に座らせようと決めていたものの、さて御幣とどう結びつけるかなど、まるで考えていなかったのです。
ともかく平薬に構成して眺めていると、突然猿の視線の先に鳥居をぶら下げてはと閃いたのです。
山桜の枝先に鳥居がぶら下がっているというのも妙な話で、思いついた瞬間笑ってしまいました。
有職造花という範疇を踏み外そうと、私はこんな発想の飛び出す瞬間が楽しみでなりません。
黄蝶
別の目的で作り置いてあった、直径5㎝程の牡丹の立木3本を使って、平薬を仕立てることになったのです。
新たに薄桃色の牡丹などを造り加えたものの、全体の色が単調なままだったので、何か昆虫を加えてとの要望からも、黄蝶を二頭飛ばしました。
それが功を奏したようで、長閑ながら華やかな平薬に仕上がったようです。
花弁は200余り、葉は300程あります。
白孔雀と牡丹
有職造花でも屈指の華やかさに仕上がる牡丹ですが、通俗と紙一重のところもありますので、牡丹だけでの平薬は作ったことがなかったのです。
しかしふと、牡丹と白孔雀を組み合わせたら、桃山の装飾美術のような平薬が出来るのではないかと、いわば真逆の発想から、木彫り彩色の胴体、絹サテンの尾羽という白孔雀を作ったのです。白孔雀は、足元から頭の先端まで13cm、胸から最も長い尾羽の先端まで30cm程です。
尾羽は、長短21本。和紙で裏打ちした絹サテンで仕立てた一本ずつをハサミで細かく刻み、胴に植え込んであります。なるたけ平薬に収まるようにという意図だったものの、もう少し長い尾羽でも良かったでしょう。
牡丹は三色で、それぞれ花と蕾の組み合わせですが、この花ばかりは決して品格に欠けてはなりません。構成上の問題から、新芽を作って添えてあります。
カッコウと山藤
円山応挙の流れを汲む画家の屏風絵から思い付いた平薬です。
屏風に描かれていたのは、猛禽類の鳥だったのですが、季節ながらカッコウに替え、その羽色に映えるように、山藤の花を淡い赤紫にしたのです。
屏風では、鳥の後ろに檜の葉が濃い緑青で描かれていたのですが、檜は作れませんので、代わりに深山桜の青葉と白い花を加えると、色彩構成も引き締まったようです。
カッコウの彩色に手こずり、すっきり仕上がったわけではないのに、どこか愛着の残る平薬になりました。
夏みかんの花咲く
ある五月の朝、カーテンを開けるなり、びっしりと夥しい数の白い花を咲かせた夏みかんが目に飛び込んで来たのです。
その美しさといったら、衝撃ですらありました。
圧倒的な花数に躊躇した平薬制作でしたが、問題は葉の形体と鏝当てだったのです。
橘の葉の鏝当てこそ、有職造花の象徴的な様式ですから、有職造花と名乗る以上、それに従うことにしたものの、花盛りの夏みかんとは異なるばかり。
剪定したその夏みかんの枝を使ったということで、堪忍です。
遡上
白絹糸を贅沢にふんだんに使って、鮎が遡上する渓谷の急流に見立てたのです。
鮎は本物のように木彫り彩色するのではなく、福田平八郎の日本画を写しました。
そのため背びれや尾びれなどが、鮮やかな黄色なのです。
遡上する鮎の上に深山桜を組み合わせて、清廉な山中を描いてみました。
春陽に咲く
突然、春先の黄色い花の平薬を作りたくなり、インターネットで黄色い春の花を探して、イヌムレスズメ(犬群雀)という可憐な花に出会ったのです。
何せ実物を見ていないので、実際には違うところばかりかもしれませんが、穏やかな黄緑に染めた葉が長閑な春陽を思わせ、程好いハーモニーが謳い出されたように思うのです。
吹き流し
昔の優れた職人技による手描き鯉のぼりと菖蒲を組み合わせた端午の平薬をと始めたものの、公家で育まれた平薬の美感と、庶民の節句ならではの手描き鯉のぼりは相容れず、代わりに五色糸に通ずる吹き流しを覗かせてみたのです。
花弁の根元を長くしたことが、菖蒲の造形を垢抜けさせるのに成功出来たように思っています。
蕗の下道
ふきのとうが花を咲かせて直ぐに、地面からはどんどん蕗の葉が伸び、繁り始めます。
春を迎え、初めての葉ならではの瑞々しく柔らかな緑ばかりか、あちこちに伸びた茎が、薄緑の曲線を際立たせるのです。
虫とか動物とか、蕗の葉が屋根になった根元を、きっと下道にして通るのでしょうから、どこに向かうのやら、リスを1匹通り縋らせてみたのです。
蕗の間から、ひょろひょろと伸びて遠慮がちに咲いているのは、雑草のヒメジョオンです。
輪舞
箱根空木(ハコネウツギ)とサンコウチョウとを組み合わせて、春の平薬に仕上げました。
ツツジに似た小さな花ですので、その抜き型を使っても出来たのですが、満足の行く鏝当てを叶えたくて、8㎜×22㎜という花弁の1枚ずつを鋏で切り抜き、鏝当てした後に5枚を貼り合わせて一花に仕立てたのです。
サンコウチョウの色が暗いので画像では映えませんが、実際にはなかなか可愛らしく出来ています。
花水木とオオルリ
庭のハナミズキが満開になっているのを見て、その花弁の形が面白いので、作ってみたのです。
花弁に針金を貼ってから鏝当てし、1枚ずつ括って1花に仕立てました。
オオルリという青い鳥は、何とも美しい野鳥ですが、その羽根の輝きは、日本画として描かれるのならばともかく、木彫り彩色として塗る岩絵具では、再現出来ないように思います。
ホトトギス
森徂仙という、江戸期に猿を得意にしたという画家の絵をヒントに仕立てた平薬です。
牡丹の咲く渓谷に飛び過ぎるホトトギスを、岩の上の猿が仰ぎ見るという絵なのですが、より深山の光景に相応しいように、牡丹を山ツツジに替え、絹サテンのひだを水の流れに見立てました。
ツツジは、花弁も雄しべも『真の薬玉』の皐月に倣って作りましたから、最も有職造花の伝統様式によって仕立てられたツツジと、オリジナルの木彫り彩色との融合になったのです。
里山の藤
里山に山藤が垂れる木の間の光景を、トリミングして切り取ったような平薬にしたかったのです。
この籐の輪ですが、ひどく歪(いびつ)になっていたのに太めの枝を当て、引っ張って固定するなどして修正したものなのです。
小枝を加えて調整してはみたものの、太い枝のせいで中途半端な構成にしかならなかったため、何にも使えずにそのまま放置してあったのですが、ふと思い立って別の目的で作り始めていた藤蔓を巻き付けてみたら、まるで木間の光景のように見えるではありませんか。
これも作ったまま放置してあった鶯を小枝に留まらせみれば結構面白くなって、ちょっと気に入っているのです。
蔓植物制作の楽しみは蔓の這わせ方にあるでしょう。偶然性を尊びながら自由に巻き付けるだけなのですが、自然でいながら思いがけないほど気が利いて出来上がるものです。
右下の花房2つは、固定せず風などで揺れるようにしてあります。
オオデマリの咲く頃
突然のように満開になるオオデマリは、ほんのりと鶯色を帯びた白い手鞠をたわわに咲かせてくれますが、その制作はずっと念願でいたのです。それでいながら何やかや踏み切れずにいるうち、物心ついた頃から同じ場所に夥しい花を咲かせ続けてくれていた庭の大木が、昨秋の台風で突然失われてしまい、オオデマリと共にあった思い出を繋ぎ止めるように制作に踏み出したのです。
オオデマリの魅力は、細かいプリーツのような葉にもあるのですが、絹サテンを染めて切り出した葉に、二筋鏝で細かく葉脈を引くことでそれらしく見せても、自然の造形には遠く及びません。
これもまた野鳥とのコラボなのですが、今回はヒレンジャクというお洒落な羽根色の鳥です。その色合いがオオデマリの葉の色に合わせて相応しいだろうと選んだのですが、少し凝って毛繕いしているポーズにしてみたものの、こうした平薬だと何気なく留まっているさりげなさの方が、ずっと相応しいのかもしれません。
遅春
日陰になった葉桜の根元を作りたくて、四ヶ月ぶりの制作になりましたが、案の定出来上がってみれば随分違うものになりました。
桜の樹木を籐の輪に組み込むとなると、先ず重さの問題やらで躓いてしまい、結局樹木の有無自体がどうでも良くなってしまったのです。
ひょろりと咲いたタンポポでもどうにか種をつけ、後は風で飛ばされるまでになった傍らに、蕗はまだ初々しい白緑の葉を広げて、たおやかに覆い被さっています。
そんな合間を突き抜けて、一本のヒメジョオンが小さな花を咲かせている…という、春とは既に名残りばかりになった季節の、人目を引かない日陰の片隅です。
鉄線と黒き猫
菱田春草の名作『黒き猫』を平薬にしようと思い付き、早速黒猫を彫り始めてはみたものの、出来上がったのは夏目漱石の『猫』に登場する車屋のクロのように、ユーモラスにふてぶてしい猫でした。
そこで菱田春草の平薬化はさっさと諦め、鉄線(クレマチス)の下の門柱に居座る『黒き猫』に変更してしまったのです。
ガンを飛ばすように見上げた目の先には、鉄線に飛んできたクマンバチを置きましたが、蔓を長く伸ばしてたわませた先端に固定したクマンバチは、羽音の如くほんの少しの振動にもブンブンと揺れるのです。
初めて作った鉄線でしたが、雄蕊の金糸も相応しく、なかなかスッキリと出来たように思います。
アケビの花と白き猫
私はアケビの新緑と花が大好きなのです。
五月の陽でキラキラと透けた若葉が垂(しだ)れ、そこに小さな赤紫の花が群れなして咲く光景には、毎年目を奪われて来ました。
そもそも菱田春草の絵からの展開でしたから、青葉にした柏を基本にしながら、そこにアケビの若葉と花を加えて構成しました。
折しも、猫の眼前に糸を伸ばして蜘蛛が降りてきたものですから、条件反射のようにちょっかいを出そうと、片手を浮かせたところです。
水際
水辺に咲く黄色の菖蒲です。
独特のムードのある花で、小学校の行き来に目にすると、得も言われぬ…そう合歓の花が目に飛び込んできた時に確信する夏の到来を、その前に予感として知らされるような、私にとってはそんな花だったのです。
実際の花色はもっと鮮やかな黄色なのですが、少し翳りを帯びた黄色に設定し、左から右に流して植え付けることで、水際の雰囲気を出して見たのです。
それにしても、こうした黄菖蒲が咲いた池も既に無くなってしまい、身近で目にする事も出来なくなってしまいました。
失った風景に気づけない人間に、これから自然はどんな道を示すのでしょうか。
桐花
雪深い会津の山道には、桐の木がそこかしこに見え、枯れ残った萼の残骸やらで、花の付き方や枝振りが良く掴めたのです。
細かい枝が多く残った素材で木組みをしたのですが、何も細工をしない枯れ枝自体が、桐の特徴を良く表してくれたように思います。
お辞儀さながら、下向きに咲く花が少しでも際立つように、反り返る花弁の内側に、光沢のある上等な絹を貼りました。
松に藤花
松に藤花という伝統的な組合せに、色彩の対比を狙って赤の御簾をあしらった平薬です。
松に藤花の図案は、よく立雛の胴体に描かれたり、刺繍されるのを見ますが、千歳の松とそれに掛かる藤に、皇室と藤原氏との関係を喩えたのだとか。
私にとってそんなことはおよそどうでも良いのですが、取り分け有職造花での松と藤花の組み合わせは、別格に蠱惑的でありながら、ともすれば通俗に流れがちな難しさもあるように思います。
雲井の鶴
光格天皇ゆかりのカキツバタ『雲井の鶴』を…という依頼で作り始めたものの、とにかく実物を見たことがないので、内側に丸まっているという花弁の先端の再現に、随分試行錯誤しました。
先端に2本の細い針金を忍ばせ、和紙を貼ってから内側に丸めたのです。
御殿の高欄に、天皇の普段着である『御引き直衣』と緋の袴の生地を垂らして、光格天皇との縁を匂わせました。
梅雨入りの頃
梅雨入り間もない頃は、木々の緑と息吹をこの上ない瑞々しさで感じられる、山々が一年で最も美しく潤う季節に思います。
そんな時期に咲く紫陽花は、まだ色付くには早く象牙色なのですが、ほんの数輪だけに薄紫が挿されていたりするのです。
花(本当は萼なのですが)は、250程。葉は3種類染めて形に切り出し、裏に針金を施してから和紙を貼ってあります。
本来あるギザギザは、柔らかな印象に仕上げたい思いから、敢えて省いたのです。
柳に飛ぶ
風に揺れる垂れ柳の間をすり抜けるツバメと、留まっているツバメです。
私にとってツバメは電線に連なってこそで、枝に留まった光景がイメージ出来ず、今まで有職造花に合わせられなかったのですが、垂れ柳とツバメを組み合わせた図を見て、何だか作れそうな気になったのです。
大きな口を縁取る薄黄色の唇など、目に焼き付いた鮮明な記憶から、恰も魂を入れるように描けたのは、小さな頃から慣れ親しんだ、特別の思いのある鳥だからこそでしょう。
垂れ柳の葉は、裏にも薄絹を貼りましたが、垂れた枝だとどうしても葉裏ばかりが見えてしまいますので、実際とは反対に濃い緑を葉裏側にして全体の色彩を調整してあります。
細い葉で数も多いので、どうしても煩くなるのですが、今回も扱いに解決を得られないままになってしまいました。
石楠花(シャクナゲ)
私にとって石楠花といったら、室生寺の塔の手前に咲く花が絶対的で、花色はサーモンピンクを暈かしたような色合いに定着していました。
どうやらそれは、塔の古色に映える色として脳が勝手に作り上げた花色らしいのですが、これはその印象のままを作ったのです。
石楠花の花弁の鏝当ては、クシャクシャとした様子を叶えるのに、二筋鏝を花弁の先端手前に殊更深く押すことで、花弁の上部にも襞が出来上がるようにしてあります。
もちろん葉の裏には黄ばんだ和紙を貼り、表裏の葉色の対比を際立たせました。
泰山木
泰山木の花は小枝の先端に付きますが、蕾のうちから真上を向いて、そのまま空に開くのです。
しかし平薬には、手が届く位置までも垂れた枝を構図にしたくて、花も蕾も少し横向きにしてあります。
葉は光沢を生かして絹サテンを使い、花は極く細かい縮緬のような厚手の絹を表裏に貼って花弁としましたが、問題は花の芯でした。
結局蕾同様木彫りにして、岩絵の具を置き上げたのですが、木蓮やらこうした花の芯にはつくづく悩まされます。
葉の間から飛び出したカワラヒワは、彩色に難儀しながら端的な表現に至らず、それでも羽根を彩る黄色が泰山木の葉色に映えたようです。
尚、画像だと輪からはみ出ているように見えても、実際には輪の内側に収まっています。
色紫陽花
滅多に作らない紫陽花ですから、花(萼)の抜き型を持っていず、その1つ1つを鋏で切り出さなくてはなりません。
先ず1.5㎝の正方形を切り出し、1枚ずつぼかし染めしてから花の形に切り出し、それに鏝当てをして仕上げます。
青や薄紫の紫陽花ときたら、ただでさえ品位が高く見える上に、梅雨曇りに情緒を与える如き白の紫陽花とは違って、ともすればアートフラワーになってしまいがちですから、そこが制作の正念場なのかもしれません。
花ザクロ
輝くような緑の葉が生い茂る中に、鮮やかな朱色の花を付けるザクロには、毎年心惹かれて来たのです。
花は裏打ちを施すことなく、朱色に染めた絹サテンに膠を塗って、洗い張りのように乾かしてから、花びらを1枚ずつ切り出して鏝を当て、予め作っておいた萼に貼り付けて作りました。
ヤブカンゾウにしろ、梅雨の最中に鮮やかな朱色やオレンジ色を咲かせる花には、とりわけ格別な情緒が宿るように思います。
白百合と青柿
上等な白絹を使った純白の白百合ですが、雄しべは、赤茶の絹糸を針金に巻いてから、折り曲げて作ってあります。
私は、花が咲いた後に夥しく実をつける頃の柿が好きなのですが、白百合が咲くのはもう少し後のことですので、その頃に合わせて、少し育った青柿にしてあります。
色の組合せも清々しく仕上がったように思いますが、その季節ならではの情緒や、息吹きのようなものを感じて頂けたならと思います。
雨宿り
そぼ降る梅雨の雨に濡れる未だ青い桃の枝に、一羽の鳩が雨宿りしているという設定です。
雨天というので、葉色を濃い青緑にしましたから、キジバトも実物とは少し変えて対照的な暖色にしたのです。
鴨類のような鳥は、私には形が鈍く思えて作らなかったのですが、避けた雨に頭を埋めて膨らむ胸のアウトラインには、鳩がピッタリだと思えたのです。
細部に説明的になるのを避けた彩色ですが、何時止むとも知れない雨宿りの退屈に居眠りをするという発想から、鳩の瞼は半分閉じてあります。閉じかかった瞼には、岩絵の具を盛り上げてあります。
構成には満足しているものの、残念ながらこの平薬から梅雨の雨筋を見て取れる程の出来映えにはなりませんでした。
螢
以前からムラサキツユクサを作りたくていたのですが、まごまご季節を外してばかりで現物の観察が出来ず、制作出来ないままだったのです。
七夕の日、鎌倉で新作の謡曲「螢」が披露されるよし、その茶会の席に有職造花を飾りたいとのお申し出を良い機会に、螢からの連想でムラサキツユクサ制作が叶いました。
あえて螢は置かず、道端に咲く首の長い小さな黄色い花を添えて、螢が飛ぶ光に見立てたのです。
七夕
五節句の飾り物の依頼で作った七夕平薬です。
笹の葉の付き方を再度観察して挑戦してみました。
有職造花は笹のみという飾りですから、短冊の質が極めて重要になるのです。
丁度折良く頂いた葉書大の工芸和紙は、薄い和紙を流水形に貼り重ねて料紙のようにした、王朝継ぎ紙というものでしたが、それを切って使ってみると品格も加わって随分と映え、私の有職造花には欠かせない材料になりました。
萱草(わすれぐさ)
この花がヤブカンゾウだと知った時、それが立原道造の詩『萱草に寄す』にある萱草(わすれぐさ)だという事も同時に知ったのです。
立原が詩に詠んだ花を、私もまたそれと知らずに梅雨空の下に眺めていたのでした。
梅雨に入って間もない頃の緑は潤いに溢れ、そこに突き出る鮮烈なオレンジ色と八重の花に、私はずっと魅せられて来たのです。
花弁に通る白い筋は、淡い黄鼠に染めた絹サテンを1㎜にも満たない筋に切って貼り付けてあります。
茎のずっと下だけに、細く長い葉を繁らすヤブカンゾウですから、平薬では遠近法を逆手に取って、出来るだけ少なくまとめたのです。
立葵
有職造花で作る際必ずしも葉の色などが写実ではないのは、花の色をより引き立てる意図もあります。
立葵を濃紅にしたのは、有職造花は陰陽道の色彩に則る選択からでした。
そのため葉色は実際より随分薄い、濃淡三通りの白緑にしてあります。
立葵の萼は二重ですので面倒ですが、それこそ蕾の見せ場でもあります。
天辺に蕾の付く茎は背の低いものとして、天に伸びる茎の中間の前に咲かせてあります。
凌霄花(ノウゼンカズラ)
梅雨以降の野には、赤みを帯びたオレンジ色の花が多く、ノウゼンカズラはその代表格ですが、その枝振りは非常に複雑で個性的で、実物を確められなかったら、蕾の向きや葉の付き方だけでも、写真ではどうにもならなかったでしょう。
中国でノウゼンカズラを指す凌霄花(リョウショウカ)とは、高い所によじ登って空を凌(しの)ぐ花という意味だそうですが、そのあまりに見事な命名に対する敬意からも、そんな様を平薬に出来たら良いのですが、そうもいかずに垂れた光景にすると、どうしてもアゲハチョウを飛ばしたくなったのです。
色の対比だけでもこの上ない華やかさですが、真夏の光景なのに涼しげに見えるという感想に、些か気を良くしているのです。
合歓(ねむ)の花
実物を確かめながら制作出来るという点だけでも、季節には季節の花を制作するというのが一番に違いありません。様式美による有職造花であろうと、季節に添った制作が続けられたらと願ってしまうのです。
合歓の花はずっと作りたくていたのですが、葉の処理に解決が得られず躊躇していたり、ずっと手をつけられずに来たのです。
しかし、あくまでも詩的なイメージとして、葉の色を薄青に設定することに思い到ったら、もはや居ても立っても居られない思いが湧き上がって、まだ花の時期には早いのですが、制作に踏み切ったのです。
ですからこれは、心象風景上の合歓の花というべきものでしょう。
さていつものことながら、画像では随分葉なりがはみ出しているように見えますが、実際には殆ど輪の中に収まっています。
白蓮
古くなった丹後ちりめんの黄ばみといったら、絹ならではの美しさに思えて、惹かれて来たのです。
それを活かすべく白蓮の花弁には、シボの粗い黄ばんだ丹後ちりめんを選んだのです。
葉には、ずっとシボの細かい丹後ちりめんを深い草色に染めて用い、白蓮を際立たせました。
威厳を内側に秘める白蓮と思えばこそ、出過ぎさせてはならないだろうと、葉の下に大きな花を隠すように埋もれさせてみたのです。
小さく仕立てた花弁には、筋鏝で細かな縦筋を入れてあります。
梅花藻(ばいかも)
清流の水面に繁って、白い花を咲かせる梅花藻ですが、私自身は一度も見たことがありません。
前から、梅花藻の平薬をと提案されていたのですが、水面や水中を平薬に表すのは難しく、真上から見た梅花藻では面白味がない。やはり、澄み切った水中を想わせる必要がありました。
木の枝を繁らせるように、籐の輪の上方に梅花藻を植えて右に流し、厚くならないように重ねた下の空間を水中に見立てたのです。
川底を感じさせるよう、白木で杭を2本立てました。
野薊
野アザミの花を作りたいと願い続けていながら、その萼が壺のような形の上に棘もあることから、有職造花は全て和紙を裏打ちした絹のみで作る…という概念では太刀打ち出来ないでいました。
木彫り彩色の鳥やらを頻繁に作るようになって、造形上の無理があるような蕾や萼なら木彫り彩色でも良いだろうし、その方が相応しいのではないかと考え始められた事から、やっとこの花の制作が可能になったのです。
刺々しく幾何学的な角度で伸びる長い葉ですから、そのままの再現では生地の無駄が甚だし過ぎるため、葉裏に和紙を貼ることで厚さを増し、先ずは触ると痛いような硬質な質感に仕立ててから、棘のある葉の形をいわば様式的に捉えて切り出してあります。
色彩配分の役割からも、3頭のモンシロチョウを飛ばせてみました。
草むらに咲く
川の土手を歩いている時、雑草の中に一本だけ伸びて花を咲かせている昼顔があり、こんな平薬を作ってみたいと携帯に撮影していたのは一昨年の夏のことです。
こうした何気ない自然環境の再現には、先ず単品として鑑賞出来る程の雑草や昼顔を完成させてしまい、最初に全体像の基本となるような一本を慎重に植え付け、それにパーツを組み合わせて最良の偶然を引き出す方法を取るのです。
自然の枝葉の妙のように、『そうなってしまった』という自然界の『非作為』に勝るものはないのですから、それを『作為』として利用するのです。
こうした一見雑然とした構成であっても、パーツとなるそれぞれの植物が、実際にどんな構造で出来ているのかを把握していないと、決して草むらになってはくれません。
有職造花のことでそのままではないのですが、自然界の凝縮に見えるためには、やはりデッサンの必須ということになるのです。
朝顔
花が終わって内側に萎んだ朝顔には独特の風情があるのですが、試作では色褪せた様まで再現出来たのです。
それに気を良くして開花途中のを作れば一際美しく、朝顔の花弁ならではの魅力を絹で表し得たように思えました。
西洋朝顔にしようと、実物の色とは随分違うのですが、花色との対比から淡い鶯色に染めた生地で葉の形を切り抜いたのです。
どうやら私は、朝顔のみならず葛(くず)や藤といった蔓(つる)植物が得意なのでしょう。好きなように組み立てた蔓でありながら、不思議なほど自然に自由に絡みついてくれるのです。
カワセミ
カワセミが小魚を狙う平薬です。
このプランはお客さんからの要望でした。
水生植物を平薬に出来ても、小魚のいる水中表現を平薬でするのは無理だと思ったのですが、小魚を水中から跳ね出させるという発想の転換に至れるなり、直ぐに制作に掛かったのです。
しかし、下台に何気なく木彫り彩色した小魚を置いてみれば、水中に泳いでいるように見えるではありませんか。この方が自然だと、いつもながらにさっさと方向転換したのです。
河骨とカワセミだけでは間が抜けた構成だったところ、白い縁取りのある葦を添える事で、やっと完成に導けたのです。
蓮(はちす)
誰も行ったことも見たこともない極楽の庭だけれど、そこに咲くのがこれだと言って、蓮の花に異存を持たれる方は少ないことでしょう。
全く、形といいその美感といい、別格に現世離れしているのです。
さて、実際の蓮の葉や花といったらそれは大きいのですから、直径30cmの輪に構成した時、こぢんまりとしてミニチュアに見えてはいけません。
葉は、8本の針金を主葉脈として貼り付け、その延長をそのまま茎にしてあります。
花は、花びらの縁に鏝当てして内側に丸まるようにしてから土台に貼り付けてあります。
納涼
夏の夕に、大きな白い花を沢山咲かせるのを夕顔とばかり思ってきましたが、あれは夜顔というのだそうです。
夕顔とは、蔓に瓜のような実を下げるのですが、それこそが干瓢なのだとか。夕顔とは、干瓢のことなのでした。
柴田是真が描いた天井画の下絵に魅せられてしまい、中でも干瓢図に惹かれて作ったのがこの平薬なのです。
私が作ってみたかったのは、花弁に行く幾筋もの葉脈のような線のある小さな白い花で、それこそが柴田是真によって綿密に描かれた図に触れてこその収穫なのでした。
向日葵朝顔図
江戸琳派の大家酒井抱一が、十二ヶ月の花や鳥・小動物などを描いた軸から、時折意臨という形で平薬にしたりして来たのですが、今回画集をはぐって目に留まったのは、以前これは有職造花にならないだろうとしか思えなかった、『向日葵蟷螂図』だったのです。
向日葵を作るのに問題なのは厚く大きな花芯で、これは絹糸の束を貼り付けた後から、毛植え細工のように刈り込めば出来ると踏んだのですが、その通りでした。
葉は敢えてギザギザを省き、若々しい黄緑に染めて、初めて咲いた向日葵のようにしてみたのです。
朝顔は、当時の多くの絵に描かれているものと同じく青一色として、先ず花や蕾を付けた蔓をアバウトに作ってしまい、それを向日葵や籐の輪に巻いて構成してあります。
抱一憧憬
酒井抱一の「夏秋草図屏風」を見ていて思いついた有職造花です。
夕立に打たれた直後の薄・朝顔・女郎花・白百合ですから、花々は頭を垂れて咲くのです。
原画の趣を直径一尺の籐の輪に再構成した、言わば意臨でしか成り立ちませんので、薄や女郎花の位置など絵の通りではありませんが、琳派の雰囲気を出すため、薄の葉脈を純金泥で彩色してみました。
白百合の雄シベは絹刺繍糸を巻き付けて効果有り、有職造花は絹で無ければ…と改めて思わされた制作でもありました。
夕顔
夕顔の花は朝顔と同じように思われがちですが、花びらの下に細く長い筒があり、その先端に筒の直径の30倍にも及ぶ大きさの花を水平に近く咲かせるのですから、朝顔とは造形的にまるで違うのです。
花びらの質感から滑らかな肌触りの絹を使うことにしたのですが、あえて少し黄ばんだ生地を選んだことによって、とりわけ襞(ひだ)の重なりには夕顔らしい自然な色彩と曲線が与えられたように思っています。
桃色芙蓉
九月に入ってからも咲き続ける桃色の芙蓉には、ずっと惹かれて来ました。その花は、残暑の厳しさでも冷たいコバルト色を含ませ始める晩夏独特の空にこそ映えるのです。
アオスジアゲハを添えたのは、そんな空色を合わせたかったからなのですが、夏がそうであるように、ちょうど桃色芙蓉の上を過ぎる瞬間にしてあるのです。
芙蓉制作で殊更厄介なのは蕾ですが、しかし厄介とは魅力溢れる造形だというに等しいのです。これは木彫り彩色です。
平薬は左右の重さにバランスが必要ですが、花の構成というのはアンバランスな方が面白かったりするのです。
この平薬も花が右に片寄って安定しませんから、ちょうど都合の良い場所にある大きな蕾の中に、絹に包んだ小石を忍ばせてあるのです。
垂葛(しだれくず)
初めて垂れる葛を作ったのです。
葛に最も惹かれるのは、巻き付く場所を失った蔓の先端が宙に浮いたまま、風に靡く様なのです。
福島の山中で、杉の枝から地上に垂れる葛を見た時、その情緒を平薬に仕立てられたらと思いました。
その想いと、私にとっての葛の魅力を叶えるため、輪の下に長く蔓を垂れさせたのです。
無花果
実ばかりでなく、無花果の葉の色や形、そして枝の張り方までが好きな私は、ずっと無花果の平薬を作りたいと願って来ました。
しかし、大きな葉に茎も長く、その様を直径30㎝の輪の中にどう再現するか、その解決が得られないままの見切り発車のような制作でしたが、全く躓くこともなく出来てしまいました。
作り置いてあったホオジロを青い果実に止まらせてみれば、羽の色が無花果の葉に自然に溶け込んで見えたのでした。
お茶の花
大好きなお茶の花の平薬ですが、問題は葉なのです。
肉厚に独特の丸みで茂った葉がお茶になるのですから、枚数が多いのは言うまでもないこと。
しかし、抜き型は無く、切り出すにも無理がありで、随分以前から作ってみたくていながら、躊躇して来たのです。
お茶の木の構成には、とても難儀しました。
最初は花を主に、葉は最小限にしてスッキリと構成してみれば、お茶の木に見えません。
成程、葉が命のお茶のことと思うばかり。
それでまた、150枚ほどの葉を作って植え足したのです。
ツルウメモドキ
ツルウメモドキの実は、直径3mm程の半球の形になるように鏝当てした3枚を、造花材料の赤い玉に貼り付けて作りました。
葉は、鋏で切り出した裏に針金を貼り、更に和紙を貼り付けることで、葉の厚みと裏表の対比を際立たせてあります。
枝の曲がりや、独特に絡みつく蔓の特徴を捉えながら、幾本か作ったパーツで構成した最後に、木彫彩色したエナガを蔓に止まらせて仕上げました。
サルトリイバラ同様、野趣豊かな平薬に仕上がったように思います。
秋来
穂が出て開いたばかりのススキは、群れ重なると若々しい黄緑がうっすらと浮き上がるのです。
そんな秋始めのススキを見るうちに、その向こうに狸(タヌキ)が見える平薬を思い付きました。
ひどく黄ばんだ戦前の羽二重を使ってススキを仕立てたものの、思うような効果が得られず、何かを補う必要から思い付いたのは、サルトリイバラでした。
初秋の野趣に満ちた平薬になりましたから、題名を『秋来』としたのです。
月にウマオイ
私は葛の葉が大好きなのです。棒や電柱を支える鉄線に巻き付いて這い上がっては葉をギュウギュウに茂らせた、その塊が好きなのです。
それでも伸び足らず、茂みから新しい蔓が突き出て垂れ、それが風に靡く情緒といったら。短い藤の花房のような赤い花も、私にはほんの添え物で構いません。
月光を遮るように伸びた蔓の上に、胴体が3cmのウマオイ1匹をしがみつかせました。実際のウマオイは透き通るように鮮やかな黄緑色ながら、満月の前の逆光でもあり、敢えて濃い緑で彩色したのです。
曼珠沙華
以前から一度作ってみたかった花ですが、面倒なようでいて何しろ葉っぱの一枚も無く、僅かに3.5㎝×0.3㎝の花びらの鏝当ても単純です。
小さな花の一つに計7本の蕊がありますが、針金に絹刺繍糸を巻き付け、花粉として黒岩絵の具と金を彩色してあります。
白の曼珠沙華は珍しいのですが、白のみでは葬式の花のように見えながら、紅白取り混ぜると一気に華やかなものになります。
有職造花でこの花が作られた事は無いのではないかと思うのですが、十分有職造花として成り立っているように思います。
早柿
実るにはまだ早い時期に真っ赤に色づいた柿というのは、虫がついていたり、自然に熟したのではないものが多いのです。
それで小粒のまま、真っ青な柿と隣り合わせに付いていたりするのですが、その極端な色の対比こそ、そんな時期の見所だと思うのです。
酒井抱一の軸にも柿の実を描いたものが幾つかあるのですが、それを有職造花にするとしたなら、柿の実ばかりは木彫り彩色にしてはならないのではないかと考えていたこともあり、染めた絹を円く縫い括って綿入れしたのです。
質感といい色彩といいまるで和菓子のようですが、有職造花ならではの鏝当てによる萼をつければ、それなりに出来上がったようです。
組み合わせた野鳥はヒヨドリです。あの喧しい鳴き声の、図々しい顰蹙(ひんしゅく)の野鳥は、宮古島でさえ“ピーピーマッチャ”と呼ばれて、嫌われていたのです。
だから、精一杯愛らしく彩色したのです。
月に葛花
ずっと作りたくていた葛(くず)の平薬は、生い茂る葛の隙間から皎々と輝く満月が見えるという設定で叶いました。
大胆な構図ですが、そもそも野に繁る葛の一画をズームさせた構成ですから、ならば隙間から覗かせる満月も、夜空の彼方に全体を浮かすのではなく大きくズームさせて、琳派の屏風絵のような効果を目論んだのです。
満月は桐の板に純金彩色ですが、まず胡粉塗りしてから墨汁→純銀泥と塗り、最後に薄く溶いた純金泥を何度も塗り重ねてあります。
僅かに銀の下地を透かせることにより、月の光を一切遮らない秋の夜ならではの澄んだ大気を、少しでもこの満月から漂わせてみたかったのです。
銀杏(イチョウ)
秋と言えば直ぐに思い起こされるイチョウですが、それが平薬になるかといえば、なかなか難しいのです。
私の平薬が鳥や昆虫と組み合わされるようになってから、それまで二の足を踏んでいた花も平薬に出来たせいでしょうか、山雀(ヤマガラ)の絵を見ていて、その羽色を黄色く色付いたイチョウに埋めさせたらさぞ映えるだろうと思うなり、早速イチョウの平薬制作に掛かったのです。
色付く途中として、一部に黄緑を刺そうかとも考えたのですが、ただただ黄色一色で山雀を埋めさせたのです。
御簾に小菊
深秋の御所庭というような設定で、巻き上げた御簾の前に小菊を植えてみました。
菊の鏝当てにはなかなか満足出来ないままなのですが、切り抜いた白菊を見ているうちに、極小玉鏝を使って花弁の先端を2山にふわりと膨らませる手法を思い付いたのです。
この鏝当てだと、穏やかな丸みが絹の風合いを引き立てるようにフワリと仕上がりますから、厚手の絹で作った白菊にこそ最も効果的でしょう。
環の中に溢れるばかりの小菊ながら、三色が決して派手に流れず押さえられていて、晩秋の静寂のようなものにも相応しく、今まで作った菊花では一番の仕上がりなのではないかと見ているのです。
山鳥と紅葉
酒井抱一が描いた、御物十二ヶ月花鳥図の二月にある『桜花雉子図』をヒントに出来た平薬なのです。
垂れさせた山桜の枝の構図は、そのままで平薬に出来るような配置でしたから、山桜を紅葉の枝に替えて、秋たけなわの平薬としたのです。
雉は以前作ったためヤマドリに替えたのですが、抱一が描いたように鳥が前向きだと長い尾が籐の輪の向こうに出てしまうため、後ろ向きにもしてあります。
ザクロの実る頃
突然、ザクロを木彫り彩色してみたくなったのです。勿論ルビーのような粒の一つずつまで木彫りするのですが、表皮の彩色にもとても興味惹かれてのことでした。
そもそも秋深くに取り残されたザクロという設定でしたので、最初は表皮を乾涸らびたような赤茶色にしたもののあまりに重苦しく、一気に金茶で塗りつぶして若干の赤や茶、緑青を挿してみたのです。
最初は赤い実だけニスを塗って光沢を出そうと考えていたものの、岩絵の具ならではのくすんだ色彩が深秋の外気を醸し出したように思えましたから、キビタキも一羽だけ添えるに留め、日本画にあるまじきことはやめたのです。
サルトリイバラ
そもそも秋が苦手なせいでしょうけれど、秋の平薬となるとまるでプランも制作意欲も湧かなかった私が、何故か今年は連作出来ているのです。
それでもまだ作りたい手の疼きが止まらずに目を留めたのが、晩秋に赤い実を付けるサルトリイバラでした。
小学校に通う道すがら、幾重にも蔓が絡まった大きな薮で毎年目にしていながら、何十年も思い出すことなくていたのに、図鑑でそれを目にするなり胸が締め付けられるほどの望郷感のようなものに迫られたのです。
ススキを背にしてサルトリイバラを構成してみると、すっかり気持ちが満たされてしまい、もう満月とかでこれ以上の秋色を加えるのは屋上屋だと止めたのです。
おくやまに
動物の木彫り彩色が楽しくて、二頭出来た鹿に紅葉を組み合わせ『奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は哀しき』の百人一首を平薬にしました。
紅葉は、くすんだ黄色なり何種類かの地色に染めた絹を型抜きしてから、一枚ずつ紅などで後染めし、針金を貼り付けてから、鏝で一枚当たり十数本の葉脈を描き込んで作るのです。
写真だと、紅葉が一尺の環から随分はみ出て見えますが、実際には殆ど環の内側に収まっています。
一見華やかに見える平薬ですが、どことなく秋の寂寥が漂よったのは『望外の喜び』というやつです。
沢蟹-Sono giunta!-
紅葉の蔦を作るのは初めてでした。
手慣れた暈かし染めと蔓の構成で難なく出来た深秋の山中ですが、それからどうしたものかと眺めるうち、ふと作り置いてあった沢蟹を太い幹の上に置いてみたら、それが面白いのです。
器用な沢蟹が幹を登ってみると、眼前に青い実を付けた蔦の紅葉が広がっていたというわけです。
沢蟹の秘かな冒険と偶然には、やはり深秋の月光が相応しいでしょう。純銀彩の月ですが、うっすらと純金泥を掛けました。
紅葉
楓は薄く平たい葉ですから、沢山の葉を茂らせても、角度によっては単なる線にしか見えなくなってしまいます。
そのため随分な数の葉を、ピンセットで1枚ずつ角度調整するのです。
葉の茎にも葉色に合わせた絹糸を巻いてありますが、葉が色付けば茎もまた同じ色に染まる自然に沿っています。
紅葉の盛りといえど、あまりに紅い葉ばかりにすると、かえって紅が殺し合いますので、黄色から濃い橙まで5種類に絹を染め分け、型抜きした葉の1枚づつに異なる紅を刺して紅葉させたのです。
銀波の宿
鷺を使って深秋の景色を作りたかったのです。
秋の深まりで金茶に変わった葉の茂みから、真っ白いススキの穂が無数に伸びて陽に映え、銀波のように揺れたり、砂子をまぶしたようにキラキラと輝いて見えたりする中に、1羽の鷺を静かに佇ませたのです。
鷺の白とススキの穂の白が色彩の殆どですから、鷺のくちばしに僅かな赤を差して、穏やかな温みを添えたつもりでいるのです。
うさぎうさぎ
立体のうさぎを平薬に据えるのには何らかの台なりが必要なのですが、白うさぎからの連想で十五夜から餅つきに至った時、ならば杵の上はどうかと思い付いたのです。
逃げ出すなりしたうさぎが乗るのは、もはや廃屋となった納屋の外に放置された、蔦に巻かれるままの杵。
その傍らに残菊となった白菊が咲いて、月の光に照らし出されているのです。
虫の声も絶え、秋草の生い茂るままにされた庭に紛れ込んだ白うさぎは、折しもの満月を仰ぎ見ながら何を思うのでしょう。
初冬の庭
以前作った平薬のパーツを花だけ作り直して再構成したものです。
十二ヶ月の平薬を作る時、その花の選択はこの季節となると非常に手薄で、苦肉の策として枇杷と石蕗(ツワブキ)を使ったのです。
半日蔭で育つ石蕗ゆえか花は一際鮮やかな黄色で、それを活かすため枇杷の向こうにも石蕗の花を覗かせてあるのです。
渋い枇杷の葉色をも引き立てて、中々雰囲気のある平薬になったように思います。
柿に烏
木彫り彩色の白鷺を改作していて思い付いた平薬でした。
江戸琳派の酒井抱一は、小動物に向ける眼差しだけでも、宗達、光琳とは違った身近な共感で、私を傍に置かせてくれる存在なのです。
その作品を元にした平薬の五つめは『柿烏図』です。赤く熟れた柿と僅かな葉、そして枝に止まる烏だけの軸ですが、意臨というほど堅苦しくも捉えず作りました。
烏の体型は小鳥とは随分違い、なかなか烏になってくれずに難儀しました。
これに五色紐は合わないだろうと思いきや、不思議なほど空間が生かされたのには驚いてしまいました。
ガマの穂に白鷺
木彫り彩色の白鷺を改作していて思い付いた平薬でした。
ガマの穂は、絹を細長く縫い合わせて針金に固定し綿入れして作りましたが、弾けてこぼれ出した綿毛は、穂の何ヵ所かに穴を空けて中の綿を引っ張り出したのです。
殆ど緑を失ったようなガマの葉と共に、渋い三色に限定した色彩の取り合わせが上手くいったようです。
流水形に切り出した下台に岩胡粉を振り、誰も訪れない初冬の沼の寂寥感のようなものを表しました。
山茶花(さざんか)
一重の山茶花を知った時、勝手に本来の山茶花というのはこういうものなのだろうと感動していたのです。
残念なほど花の寿命も短いようで、早くからはらはらと散って道に散らばっていたりしますが、それがまた美しく思わず手に取ってしまいます。
私の魅せられた山茶花は、長く真っ白な花弁の先端に少しだけ紅が注されているのです。
いずれにせよ白が基本なのですから、すこし厚めで光沢もある、上等な白絹を使って作りました。
これにも小禽を止まらせようと考えていたのですが、かえって一重の山茶花ならではの趣が削がれてしまうように思えて、久しぶりに花だけの平薬となりました。
霜夜の月
鳥と有職造花の平薬を復元している最中に、酒井抱一『枯蘆白鷺図』を目にして思いついた作品です。
枯蘆を有職造花にするなど思いもつかなかったのですが、色を失った蘆は残菊や蔦の色彩を際立たせ、真上からライトを当てるとまるで凍てついた月灯りを浴びたような風情になりました。
桐の板を水面に見立てて水に立つ白鷺としたのです。
黄色の残菊は、和紙を裏打ちせずに糊を打って儚く仕立てました。
蓮田の雪
枯れた蓮の葉を作るのは10年ぶりでした。
葉裏にする絹を慎重に染め、20本の葉脈を貼って傘のように閉じ、内外に折り畳み、穴を開け、蓮の破れ葉に仕立てました。
干からびた花芯は、木彫り彩色です。
全体が限定された暗い色調であるからこそ、明るい色彩は殊更輝くだろうとの目論見から、鳥は真冬の野鳥の中から、鮮やかな山吹色の羽が覗くジョウビタキを選びました。
凍日
有職造花と木彫り彩色の鳥とで、凍えんばかりに厳冬の平薬を作ってみたかったのですが、思い浮かんだのは枯れた蓮の葉と茎でした。
沼に雑然と枯れている蓮と合わせる鳥を考えている時、いつもこの季節になるとふと思い出す「百舌鳥が枯れ木で啼いている…」という唱歌から、その鳥に百舌鳥を選んだのです。
あえて背中を向けさせる事で、生きものを拒むような厳冬の風景を演出してみたのです。
雪中烏図
数年前から、大気の緊張した冬を待ちわびるようになり、雪景に惹かれ続けた挙げ句、厳冬の雪に埋もれた深山の枝に、一羽の烏が止まるという『雪中烏図』を平薬にしたいと願いました。
究極に色彩が限定された、静寂と極寒の世界は、版画や日本画に幾つも描かれましたが、その平薬は、有職造花のない有職造花平薬になりました。
この平薬が飾り物としての役割を果たすことはないでしょうけれど、そうであろうがなかろうが、作らずにいられなかっただけのことなのです。
松とし
松と御簾のように同じ平薬の注文を受けても、同じ物を二度作る気にはなれません。
今回制作を始めた時ふと、長く伸びた枝を活かして文を結びつけてはどうかと思いつきました。
文には、百人一首から中納言行平の「立ち別れ稲葉の山の峰におふる松とし聞かば今帰り来む」を仮名書きし、歌のままに“松”を懸け言葉とし、題名ともしました。
松のパーツも最低限に留められ、スッキリ出来たように思っています。
雪中寒牡丹
小道具の箒を作って残った卓上箒が、まるで霜除けのように見えて思い付いた平薬です。
寒気まで表せるよう、花にはより白が引き立つ上等の絹を使い、ほんの少し雪も積もらせました。
メインの飾りが片側に寄ってしまう構成だと、どうしても重心の釣り合いが取れませんから、太い梅の幹を右下に据えて重心の均衡を図りました。
パーツを最低限にしたのも生きて、寒気の中の穏やかな華やかさにまとまったようです。
一隅に咲く
久しぶりに『行の薬玉』を制作したところ、新たに作った型紙で仕立てた水仙が理想的に仕上がりました。
それに気を良くして、同じ型紙によって水仙を作り、冬の平薬を構成してみたのです。
今までになく渋い萌黄にした葉の色によって、絹自体の黄ばみを微かな花色に見立てる目論みが、図らずも強調されたように思います。
水仙の茎や葉を籐の環に添わせて弛ませ、枯れ枝を一本だけ配して、人目につかない野の一隅を演出してみたのです。
春は名のみの
『早春賦』という唱歌を平薬に見立ててみました。
『春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は覚えど 時に有らずと声も立てず』という歌詞からのタイトルですが、やっと一輪咲いた梅に寒の戻りの遅雪が積もり、鴬が飛来したもののまだ鳴くことはないという光景に仕立ててみたのです。
飾り物としたら地味に過ぎるでしょうけれど、そもそも私はこうした平薬が好きで、また得意でもあり、こんな世界こそが私ならではの平薬というものではないかと考えもします。
隼(ハヤブサ)
神武天皇の持つ弓に止まる鳶を作ってみたら、とても新鮮で思いがけないほど面白く、猛禽類で平薬をと思い立ちました。
猛禽類への興味は、内側に鋭く丸まった嘴(くちばし)なのですが、小さな木彫りでは無理があり、嘴に貼り重ねた和紙を鋏で切り出してあるのです。
図鑑のような説明的な彩色は避け、日本画の一部のように塗ってみたのです。
藤原定家が詠んだ、十二ヶ月の花鳥和歌24首をモチーフとした12種の平薬を、江戸期の図案によって復元しましたが、これは同じ歌によるオリジナルの十二ヶ月平薬です。 そのためもあり、薬玉は省いてあります。
3月『藤に雲雀』
定家3月の花の歌は藤ですが、鳥の歌は雲雀にスミレなのです。
雲雀は、悪さをして地上に追放されたのだそうで、空高く登って鳴くのは、天上の神様に許しを乞い続けているのだとか。
ならば、春の野に咲いたスミレのひと花を届けようと、咲き乱れる山藤など目にも入れず、一心に空を昇る雲雀と見れば、背後の空がより高く見えるように思います。
垂れた藤花の2房は、揺れるように仕立ててあります。
4月『卯の花に時鳥』
鳥を左端に置くなどの片寄った構図だと、左右のバランスに苦労するのですが、花を補ってやっと釣り合いを取りました。
咲き乱れる卯の花の下から眺めた空高く、ホトトギスが忙しく飛び去る光景にも見えます。
5月『菖蒲に水鶏』
菖蒲は黄菖蒲にして、水鶏(クイナ)には魚を捕まえさせてみたのですが、ついぞ水鶏と知って間近にしたことがなく、その彩色には殊更手こずってしまいました。
そのくせ、魚はといえば、モデルもなしに木彫彩色出来るのです。
6月『撫子に鵜飼』
お気に入りの鳥類図鑑に描かれた鵜が、あまりにも可愛いので、その通りに木彫彩色したのです。
篝火を中央にして主役の扱いにしましたが、もう少し大きかったら良かったでしょうけれど、燃え上がって風に流れる炎に、叙情的な余韻まで表せられたならと思ったのです。
7月『女郎花に鵲(カササギ)』
市販の造花材料を使って女郎花を作りましたが、パールとかいう洋風な黄色と、粒が実物より大きいためか、何よりも肝心な女郎花の風情というものが出なかったのです。
しかし、7月の花鳥和歌を彦星織姫や天の川と解釈して、短冊を下げた笹竹を加えると、見違えるように情緒のある七夕の平薬になりました。
8月『萩に雁』
萩の花や葉と雁は、随分大きさも違いますし、直径30cmの丸の中に、萩と雁が一緒に収まっていても、それぞれが置かれている位置には、甚だしい遠近の違いがあるのです。
こうした取り合わせの難しさは、そこにそあるでしょう。
遠近を平面に当て嵌めてしまう、古来の方法を踏まえながら、萩を輪の左手前にまとめ、雁は満月の前に飛ばせる事で、それぞれの距離を醸し出してみたのです。
9月『尾花に鶉』
純金泥を塗った、直径20cmの桐板半分を上弦の月に見立て、尾花の後に浮かべて秋の演出を加えました。
満月に向かう月は、穂が出たばかりの尾花繁れる野に皎々と照り、ひとつがいのウズラがその根元に居ます。
母ウズラに2羽の雛鳥がまとわりついているのを、少し離れて父のウズラが見守っているのです。
10月『菊と鶴』
鶴のポーズや大きさなどに、具体的なプランが立たないでいるうちに、松の大樹の向こうに、何処にか飛び去る後姿の鶴が頭に浮かんだのです。
松の下に、平薬ならではの遠近法によって白菊を僅かに覗かせました。
鶴の彩色には、こまかな羽の描写などはせずに、羽の重なる翼の部分に純金泥を薄く塗り重ねて、わずかに光る金の影にしました。
11月『枇杷に千鳥』
小御所に、下弦の月の下に川が流れ、網代木に水がうねり通る上を、何羽もの千鳥が飛び過ぎる襖絵があり、それをヒントに構成したのです。
月が放つ白銀の光の中に、枇杷の葉も千鳥もその色を消されて溶け込む、そんな夜半の光景です。
川の水は、絹スガ糸とうっすら水色に染めた真綿。
白千鳥は、左から右に飛ぶ残像を描くようなつもりで、5羽配置しました。
12月『早梅に鴛鴦』
復元の平薬では、水際に並ぶひとつがいの鴛鴦(オシドリ)でしたので、珍しく雄を飛ばせたのです。
縮めた足には絹の水掻きを貼りました。
梅は、華やかな鴛鴦と対照的に、太い幹に白梅のみを控えめに咲かせてみました。
雛立像に持たす小道具として作った、直径僅かに5cmの平薬です。その後要望があって、小さな飾り物としていくつか作ってみたのです。輪のサイズからすると花が大き過ぎるのですが、花はあくまでも鏝を当てたものでなければ意味がありませんから、どうしてもある程度の大きさが必要なのです。しかしこうした小さな物だと、構成の難しさこそ特別ではあっても、所詮小さいということにしか価値が無い…というような気持ちになり、ストレスが溜まって来てしまうのです。