婚礼には、かつて数々の有職造花が用意されました。婚礼用の有職造花の代表格は「奈良蓬莱」でしょう。公家・武家共に婚礼の場の床の間に据えられたそれは、丈六尺(180㎝)近い大きなものです。大海の大亀の背にそびえる蓬莱山の姿で、霊能力を持つと言われる桃や柿を各三個、鶴三つがいを松の枝に配しますが、松の頂上近くに鶴の巣があり、中には十羽の雛鶴が巣籠もりしています。これを婚儀の場の床の間に据えると、天井の伊弉諾・伊弉冉(イザナギ゙・イザナミ)に道が通じると言われます。その途中に酒を捧げ、それを押し戴くことにより子孫繁栄や偕老同穴を祈るというのが三三九度です。それゆえ、本来これがないと三三九度は成り立たないのですが、とりわけ高価で大型の飾り物でありながら、あくまで単なる結納品として、使い捨ての一つであったためか残存しなかったのはつくづく惜しまれます。画像は昭和八年に丸平大木人形店五世大木平蔵監修で制作された名品と、平成10年に丸平七世大木平蔵の監修で制作されたものですが、有職造花は雲上流などによるものです。
奈良蓬莱
丸平さんに残されていたこの写真は、当時著名な写真家黒川翠山に依頼して撮影されたものです。それだけ特別の制作だったということでしょう。中央にある大きな玉は、桃でなく椿の実ではないかと思われます。ここに見る雲上流による有職造花の完璧な構成とパーツの完成度は尋常ではありません。どこに納められたか解りませんが、これが失われたのは有職造花史上でも残念極まりない事です。
復元奈良蓬莱
昭和初期の奈良蓬莱写真の出現により、丸平さんと復元を目指したものでした。京都はじめ様々な地域で制作されたものを合わせて出来たのです。寸法は武家の記録によります。雲上流による造花ですが、後に私が柿の葉と橘を下方に補いました。復元にならなかった事がいまでも残念ですが、間違いなく日本唯一の物でしょうから、時代劇などでも活用される事があったらと願ったりするものです。
徳川将軍の婚礼に際して用意される品々を記したこの貴重な巻物は、こうした資料としては異例なほど、三宝の文様に至るまで丁寧に描かれています。徳川将軍の婚礼に必要とされた夥しい数の品々が延々と描かれる最初は、やはり婚儀の席の床の間に飾られた奈良蓬来なのですが、この資料で見るべきものは、その左に紅梅白梅と椿、桃、その実などを六角台に載せ、手前に鶺鴒二羽を向かい合わせた有職造花です。高さ170cmを越える奈良蓬来と同じ規模に見えますが、通常奇数にする実の数が、椿と桃の双方共六つであったり、その由縁も意図も名称も、全く分からないのです。復元してみたいものではありますが、ここまで大掛かりだと保管場所の問題から、容易に手を初められません。
復元 徳川将軍婚礼飾り
この巻物で、奈良蓬莱と1対にされるらしい婚礼飾りを見た瞬間から、復元を考えていました。
巻物には、一切の寸法が記されていませんので、奈良蓬莱を基準にした縮尺で、洲浜台の幅を2尺に設定しました。
幅や高さがほぼ2分の1ですので、体積は4分の1。しかし、それでは幾ら何でも、椿の花や鶺鴒が巨大過ぎてしまいます。
巻物にあるのですから、どんなだったにしろ用意はされたのでしょうけれど、規模はまるで不明です。
本来、三宝は胡粉塗りされ、若松など極彩色で描かれていたようですが、あまり品の良いものとも思えず、有職造花の復元に留めたのです。
置き鳥・置き鯉
有職造花が武家社会に取り入れられるようになると、公家社会とはまた違った感性で発達を遂げますが、とりわけ婚礼用具にそれが顕著に思えます。
奈良蓬莱同様、婚儀の床の間に必要不可欠なのが『置き鳥・置き鯉』で、本来は生の鯉二匹と雉二羽を腹合わせにし、それぞれ丸三宝に盛らなければなりません。
この木彫り彩色の置き鳥・置き鯉は、国立歴史民俗博物館で催された『人生の通過儀礼』という展示のために作ったもので、鯉は1尺、雉は2尺程です。
昭和初期に丸平が誂えた婚礼道具の一つで、雲上流の制作です。当時の雲上流は、花びらの一枚ずつを型抜きし、それに鏝当てしてから萼に貼り付けてゆくという手間の掛かった手法をとっていましたが、そのためとりわけ梅が見事なのです。花びらの膨らみとその丸みは、類も見ず追随も許さないというほどの完成度がありました。荒く織った絹布には裏打ちを施さず、繊維を横に合わせて型抜きすることで、鏝当てによって織り目の間隔を上下に引き延ばすことで叶えているのです。尚、嶋台2は、この嶋台を復元する意図で作ったものです。
嶋台 1
嶋台は、本来三三九度の盃置きの役目ですが、室内の装飾として遊興風俗の絵画にも頻繁に登場します。蓬莱山をテーマとして松竹梅を盛り、下草として福寿草やヤブコウジを植えます。州浜台の規模によって高砂や鶴一つがいを加えたりするなど、その規模も装飾も自由で、多様を極めたようです。
嶋台 2
前作は、木組みも新たな全面改作といえど、パーツは五年前のを梅一輪までバラして使ったのですが、これは絹サテンでパーツも新しく作り、昭和初期に雲上流で制作された嶋台をより写す目的でした。しかし有職造花の場合、全くその通りに復元するなど所詮無理な話で、いわゆる“意臨”という気持ちでするしかないのですが、どうしても出来上がりが異質なのです。私の“立体”は西洋美術の遠近法であり、又、個々の枝などへの表情付けが細かいのも要因でしょうが、あくまで伝統の趣きを厳守しながら、そんな自らの特徴との融合を目指すしかないと思い至っています。雲上流の嶋台で前方に2本立つ竹は、面白いことに笹竹仕立てです。今回葉の一枚ごとに筋鏝で縦縞を記すと、それだけでも随分と様式的な趣が加わります。木組みは松と梅の古木。枝を打ち付けた釘の頭は、梅の古木に付いた苔を貼って隠してあります。
嶋台 3
幅39cmの洲浜台に載せるために、小ぶりの嶋台を制作したのです。
画像では分からないのですが、非常に曲がりの良い梅の古木が手に入りましたので、ひたすらそれを生かすように、松の枝を植えたのです。
嶋台 4
幅39cmの洲浜台に載せた嶋台ですが、松の下枝を洲浜台からはみ出させて幅50cmに仕立てました。
より華やかにするため、橘と2色の椿を加えてあります。
『浦島』(左)と『菊慈童』(右)
太鼓橋付き島台
国立歴史民俗博物館の依頼で制作した、かつて婚礼の場を飾った五種類の台のうちの一つですが、嶋台の用途ではありません。
図案は江戸の書物から写し取った稚拙とも思える図からで、それを忠実に再現したためこうした形になっています。
もう少し自由に変えてもよかったのでしょうが、依頼の性質上あくまで再現にこだわったものです。
尚、高砂は博多人形を使い、その他は自作木彫り彩色のものです。
奈良蓬萊をはじめ、嶋台、富貴台、鶺鴒台、置き鯉・置き鳥などが見える。
かつて、将軍をはじめとした位の高い武家や、豪商などの婚儀では、奈良蓬萊や嶋台の他に、更に幾つもの婚礼飾りが必要とされました。その代表的な物に『肴台』があります。
肴台とは、①婿の前に置く『押台(おさえだい)』、②嫁の前に置く『富貴台(ふきのだい)』、③嫁を婚家に招き入れる役目である待女臈(まちじょろう)の前に置く『控台(ひかえだい)』の3種です。
それぞれに、決まりものの植物が盛られますが、その謂(いわ)れが様々あったとしても、所詮は婚儀の場の室内装飾が一番の役目だったのではないかと考えています。
押台
稲穂に河骨(コウホネ)を盛り、木彫り彩色した二羽の鶺鴒(セキレイ)を止まらせています。
このように、鶺鴒を加えた押台を特に鶺鴒台(せきれいだい)とも呼びますが、鶺鴒は日本書紀のイザナギ・イザナミ逸話による、夫婦和合の象徴なのです。
富貴台
語呂合わせなのでしょうが、蕗の葉を盛ります。花を伴わせたツワブキの場合もあります。
肴台の規模は様々だったようですが、この3種は1辺が30㎝の三宝で、高さは三宝の底から50㎝程です。
控台
沢瀉(オモダカ)と菖蒲を盛りましたが、里芋や河骨の葉の場合もあったようです。
押台もそうですが、何故このような飾り物に水生植物を使うことが多いのでしょう。
小さな肴台3種
七寸官女の前に置く小道具として作った肴台です。
とりわけ『押台』が厄介で、大きさの比率から本物の稲穂が使えず、極小粒の造花材料を束ねて稲穂とするのですが、どうしても稲穂を主役と出来るほどのクオリティは望めませんから、稲穂を一房だけ仕立て、それを鶺鴒に咥えさせたのです。
富貴の台と銚子飾り、及び婚儀の有職造花
丸平大木人形店が昭和初期に誂えた婚礼飾りのものです。雲上流による制作と思われますが、蕗を三宝上に構成したものと思われます。これもまた、長崎の富豪の結婚式に使用された物なのでしょうか、婚儀の場の写真が残され、巨大な嶋台や用途の知れない様々な有職造花による飾り物が多く見られます。
三三九度の銚子である『長柄の銚子』と『加えの銚子』を、1ヶ月に2種類づつの花で飾った、いわば『月次銚子飾り』です。
30数年前に京都で誂えたという銚子には、水引きと紙包みが付けられていましたから、それをそのまま生かすべく、紙包みと水引きの間に竹筒を忍ばせて、そこに差し込んで飾るように構成しました。