■ 節句人形の有職造花

現代では、主に雛人形に飾る桜橘が代表的なものです。昭和初期頃までは、節句人形に付随する様々な人形に持たせる小道具としてや、脇などに添える立木などとしても、数多く制作されていました。

『十一・十二世面庄頭丸平七世大木平蔵作二番親王尺三寸十九人揃』
この稀に見る大きな雛飾りは、その雛段だけで十畳の広さを要するものです。頭(かしら)は、丸平大木人形店に残る明治中期から昭和初期に制作された、今や伝説的な名人頭師である十一世・十二世面庄作ばかりを使って、丸平250年の歴史の集大成という意味も含んで、七世大木平蔵により制作されました。中にはこのために新しく生地を織るなど贅沢の極みですが、現在は官女が四人、随臣がもう一人追加されて、二十四人揃に変わっています。

節句人形『十一・十二世面庄頭丸平七世大木平蔵作二番親王尺三寸十九人揃』(間口4.5m×奥行3.6m)

『二世川瀬猪山練頭七世大木平蔵作六番親王七寸二十一人揃』
脱ぎ着せ仕立て(着脱自在)によるこの雛は、重陽の頃に納品されたため櫛や元結いの文様が菊とされていたり、仕丁の小道具にも紅葉の掃き寄せを添えたりと、秋の仕様にされています。随臣の間に小菊の籬を置いたのもその為で、花の色は陰陽道に則り、葉の緑から黄・赤・白・紫としてあります。

節句人形『二世川瀬猪山練頭七世大木平蔵作六番親王七寸二十一人揃』(間口2.3m、奥行2.1m)
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二番親王用 月次図屏風(復元)

コレクションする二番親王用の屏風として、丸平さんの写真帳に残っていた屏風の写真を復元しようと描いたのです。
何せ昭和初期に撮影されたらしい小さな写真で、しかも屏風を撮影したのではなく、屏風の写真を撮影したもののようで、至極ボンヤリとしか写っていないのです。
勿論、上部に貼られた和歌も分からない、色も分からないのですから、所詮復元は無理というものでしたが、何故か惹かれてしまって、出来る限り写真に忠実に描こうとしたのです。
とりわけ3月の図など、これのどこが3月なのかすら不明なのですが、古今集にあった『谷風に解くる氷のひまごとに打ち出づる浪や春の初花』という和歌に当てはめ、岸辺に僅かな波を描き加えたりして、何とかこじつけたりしてあります。
色紙は絹を染めて裏打ちしたものに、文様を金彩し、万葉仮名で草書混じりに和歌を書いたのです。

一月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

二月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

三月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

四月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

五月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

六月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

七月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

八月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

九月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

十月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

十一月

『原図』『原図』
『復元』『復元』

十二月

『原図』『原図』
『復元』『復元』
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桜橘

桜橘図
桜は花930、蕾1400、葉1200枚ほどで、絹サテンを使いました。蕊には日本画岩絵の具によって花粉が施されています。梅の古木を木組みに使い、苔もそのまま生かしてあります。 橘は、実が48個、葉が1300枚程です。もちろん小さな花や蕾もついています。木組みは犬柘植の古木により、出来る限り原木の形そのものの味わいを生かして制作しました。

桜橘図
桜橘図
『桜橘図』『桜橘図』(高さ約65cm)
『桜橘図』
『桜橘図』
『桜橘図』
『桜橘図』
『桜橘図』
『桜橘図』
『桜橘図』

桜立木
二番親王尺三寸二十一人揃に据える桜橘です。私は満開の桜よりも二分三分、これから咲くという時期により美しさを感じるのですが、雛飾りのことでそうもいかず、ともかく花数の三倍以上3500本もの蕾にしたのですが、造花故かそれでも満開に見えます。山桜ですので、葉も1500枚以上あります。雛のための桜橘としては異質でしょうが、自然木を活かした木組み故のことですので、仕方ありません。今回は絹サテンでなく、極く細かい縮緬に似たフラットという絹を使いました。

桜立木
桜立木
『桜』
『桜』
『桜』
『桜』
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桜と橘

1つの垣根の中に、桜と橘を植えてみたのです。
必ず雛段に据えられた桜橘でしたが、すっかり段飾りが廃れてしまった今、桜橘の出番などまるで無くなってしまいました。
これはそもそも、垣根が1つしかなかったので、それに左近の桜、右近の橘を象徴させて植えた飾りなのですが、高さ40㎝程の桜でも、花が200、蕾が300あります。橘は、葉200に実が7個です。
前からだけ見る設定の桜橘なら、もっと少ない花数で済むのでしょうが、どんな有職造花であれ、自然の成り立ちから離れられない私には、そうした造花は作れません。

桜と橘
桜と橘
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紅葉の垣

有職造花を作り始めて間もない頃の制作で、紅葉の抜き型などありませんでしたので、確か960枚程の葉や、そのギザギザまでハサミで切り抜いて作ったのです。
殆どを真っ赤な葉にしたのは、戦前の紅絹(もみ)独特の紅を際立たせたかったからでしたが、単調との指摘を受け、後から左下だけに、色づく途中の黄色の葉やらを少しだけ加えたのです。
七寸仕丁の脇に飾るつもりで、桜橘のような垣を付けたのですが、この垣も自作です。

紅葉の垣
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菊の籬(まがき)

陰陽道の5色(紫白赤黄緑)を菊花と葉にして、能の揚幕の並びに合わせて、籬の前に植えたのです。
これは、私の丸平雛コレクション『二世川瀬猪山練頭七世大木平蔵作六番親王七寸二十一人揃』の随臣の段に飾るために作ったのですが、まだ針金に巻く絹糸を手に入れる術もなかった頃の制作で、太い絹縫い糸を引き抜きバラして巻いたのでした。

菊の籬(まがき)
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三宝盛り桜橘

お子さんのために誂えられた、小さく愛らしい雛に添える桜橘をとのご意向でしたから、直径9cmの球に仕立てて三宝盛りする、より装飾的な桜橘をお勧めしたのです。球体というのは実にパーツが必要になるもので、そんな小さな球でも、橘の葉は180枚を超えてしまいます。 満開の桜ですから、華やかさを重んじて葉を省き、蕾はデコレーションとして散らしてあります。白木の三宝には純金泥で遠山を描き、可愛らしさを超えた格調を目論みました。

『三宝盛り桜橘』
『三宝盛り桜橘』
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犬筥

胡粉塗りまで終えた犬筥の生地(長さ15cm)を提供頂いていたので、博多人形の犬筥写真をモデルとして絵付けしました。
量産の手順故なのでしょうけれど、あまりにも図案化された蓬莱山の松は、岩絵の具の特性を生かした日本画風に、また、どうしたわけか犬筥の胴体に必ず描かれる小菊も、花鳥画風に描き替えました。
胴体は本来金箔押しですが、技術的な問題もあって金泥彩色とし、酒井抱一が描いた犬筥のように胡粉塗りの白を強調する金彩の割合にしたせいか、より上品さが醸し出されたように思います。
向かって右を赤金泥、左を青金泥にしたのですが、色の違いはあたかも性別まで変えるような印象になったのは思いがけない事でした。
そのため、唇をキッと結ばせたり、穏やかに結ばせたり、目の間隔も変えてオリジナルの面相にしたのです。

犬筥
犬筥
犬筥
犬筥
犬筥
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十二支の面(おもて)

本狂い八寸の大名が被る面として作った、十二支の木彫り彩色です。
毎年、その年の干支の面を被せれば、正月の床の間飾りになるのです。
本狂い人形とは、三頭身程の御所人形に衣装を着せたような人形ですから、その面も擬人化されたものが相応しいのですが、寅年の面ばかりは、トラという名前の猫という、シャレなのです。

十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
牛
十二支の面(おもて)
寅
猿
十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
十二支の面(おもて)
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尺三寸五人官女用の節句飾り

私がコレクションする、座った高さが33cmという大きな五人の官女は、それぞれを五つの節句に当て嵌めて、絵元結にそれを表すような絵を描いてあるのですが、以前は極小に作った五節句を表す有職造花を三宝に載せて持たせていたのです。
私はどうにもそれが物足らず、ならばと官女の背丈を140cmに仮定しての比率から、人日『掛け蓬莱』、上巳『流水桜橘平薬』、端午『真の薬玉』、七夕『七夕花扇』、重陽『茱萸嚢』という五節句飾りを、尺三寸官女が持つ場合の寸法に割り出してみると、実物の約三分の一になったのです。
掛け蓬莱は本体9cm・全長44cm、『流水桜橘』は本体の直径8.7cm・全長38cm、『真の薬玉』は本体15cm・全長38cm、『七夕花扇』は本体29cm、『茱萸嚢』は本体13cm程です。ただ五色糸は、以前淡路結びして残されていたのを使いましたから、敢えて寸法に切ることはせず、少し長いままにしてあります。
尚、七夕花扇についてはあまりに大きいので、官女の前に置くこととし、手には『匂い』と呼ばれる花使いの女性によって届けられた、贈り状の入る文箱を持たせました。
極小の飾りは、とりわけ女性に人気が高いのですが、作る側からすると、花の直径が8㎜とかあまりに小さ過ぎ、技術上や表現上で、ここまでしか出来ないのかという欲求不満ばかりが膨れ上がってしまうのです。その点これくらいの大きさがあると、実物と変わらない出来上がりの満足も得られました。

『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』

尺三寸五人官女用の節句飾り②

前に作った節句飾りをどうしても欲しいと言われた方に全てお分けしてしまい、新しく作ったのです。
そもそも人日の『掛け蓬莱』と上巳の『流水桜橘』については、正月飾りと雛飾りの桜橘を象徴した平薬を節供飾りに当て嵌めただけで、それぞれの節句ならではの有職飾りというのでは無いのです。
そこで、その二つの節句ならではのものを探して辿り着いたのは、京都国立博物館で所蔵されている『四季景物文様振袖』という、幕末から明治初期に制作されたらしい着物でした。その図柄が五節句やら節句行事に因んだものにされていて、結局そこに描かれていた人日の『七草籠』と上巳の『貝籠』を二つの節句ならではのものとしてミニチュアを作ったのです。
『七草籠』は恐らく上方文化のものでしょうけれど、ひげ籠と呼ばれる特殊な竹籠に七草を入れて飾る風習があったらしく、中島来章も『七草籠』という題名で描いていますから、それを模して有職造花と木彫り彩色で誂えた七草をひげ籠に納めたのです。
『貝籠』もまた、今も地方に残る旧暦三月三日の潮干狩りが図案にされていましたので、それこそ上巳ならでは行事として、木彫り彩色した様々な貝を籠に盛り、有職飾りとしました。
七夕の有職飾りといったら『七夕花扇』に勝るものは無いのですが、縮尺でもあまりに大きく、梶の葉に蹴鞠を添えて献上する七夕行事から、中島来章も描いたその一枝を模して持たせたのです。
尚、この三つは『節供の有職造花』に載せてありますので、詳細はそちらをご覧下さい。

『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
『尺三寸五人官女用の節句飾り』
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糸花(イトバナ)

女雛の持つ檜扇(ヒオウギ)には、衵(アコメ)の花とも呼ばれる有職造花が付きます。檜扇は、顔を露にする事を嫌った高貴な女性達が、宮中に在る時ですら男性の目を遮るため常に持ち歩いたもので、枕草子絵巻には物を運ぶ官女ですら、顔を隠しながら廊下を行く姿が描かれています。皇室の糸花には、松竹梅以外に橘のみとかもありましたから、依頼によって椿、菊、紅葉、萩なども作りました。

『糸花』

椿の糸花
十二世面庄のおぼこ頭で、丸平さんに立像制作を依頼された方からの依頼で作った、紅白椿の糸花です。花の直径は1cm程でしょうか、そのために檜扇の絵も白梅と椿にしてあるのです。図案は酒井抱一の掛け軸からですが、殆ど顔彩しか使って居らず、たらし込みのようにたっぷりと水溶きした絵の具で一気に書き上げ、所々に白緑やらの岩絵の具を補ってあります。こうした檜扇の殆どは閉じたまま持たせられるので、中の絵など見られる事は無いのですが、描かれていると無いのではまるで違うものです。

『白萩の糸花』『白萩の糸花』

白萩の糸花
女雛の檜扇は、水辺に白萩と曼珠沙華が咲き、空には雲に霞んだ半月が浮かぶ光景を描いて欲しいとの厄介な要望があり、その糸花を白萩にとの事で出来た物でした。大きな立像の女雛でしたが、割合地味な襲ねの十二単でしたので、閉じて持つ檜扇でも殊更暗くなることもなくはまって、安心したのです。

『白萩の糸花』『白萩の糸花』

紅葉の糸花
この檜扇の依頼者は、御殿の庭に萩の咲き乱れる池があり、水面に月が映っている図案で、その糸花を紅葉とする秋尽くしの檜扇をご所望でした。閉じて持つ檜扇に、図案を凝っても見える訳ではありませんが、丸平さんの雛というのは見えないところこそに手を抜かない特色にありますから、こうした手間には必然性があるのです。

『紅葉の糸花』『紅葉の糸花』

五節舞檜扇の糸花
額まで尺三寸という大きな五節舞姫に持たせる檜扇です。 本来五節舞姫の檜扇には、紅梅白梅に松の糸花が付けられるようですが、そもそも私のコレクションである二番親王尺三寸揃に加える一人としての舞姫であることから、糸花も雛の節句に合わせて桃花(直径1cm)と柳にしたのです。 何しろ自分で作ることですから、何らかの差し障りが出たり飽きたりしたら作り直せば良いまでで気楽なものなのです。 女性の檜扇は39枚の板で作られますが、雛用の小さな檜扇にそんな枚数を重ねたら分厚くなってしまいますので、極く薄い素材で開いたままの檜扇に仕立て、胡粉塗りの後に彩色したのです。

『白菊の糸花』『五節舞檜扇の糸花』

橘と松の糸花
橘の実(直径5mm)の、鮮やかな黄色が橘と松の緑に映えて、一際スッキリと垢抜けた糸花になりました。

橘と松の糸花『橘と松の糸花』
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官女用の嶋台

雛人形というのは妙なもので、所謂お内裏様は天皇に見立てられているのですから、本来婚礼の設定はあり得ないのです。女の子ゆえに嫁入りが基本にされるように発達したためなのでしょう、中央の官女は三三九度の杯置きである嶋台や、杯が載った三宝を持っているのです。本来嶋台は、抱え持つほど小さなものではありませんから、官女の前に置いて構いません。どんなに小さな嶋台でも、材料も制作過程も実物と全く変わりませんし、出来上がりの崇高さも変わってはならないのです。

『小さな嶋台』『小さな嶋台』(高さ8cm)
『小さな嶋台』『小さな嶋台』(高さ5cm)
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雀の嶋台

3人仕丁の前に、松、竹、梅3種の嶋台を置きたいのだけれど、そのどれもに雀を組み合わせて欲しいとの依頼で作ったのです。
洲浜台は幅3寸、雀は1寸です。
主役は松竹梅ではなく雀ですので、松→松葉、竹→竹林の落葉、梅→小さな古木に数輪の花、としてみました。
私のインスピレーションは、ともすれば意表を突き過ぎて、理解を飛び越えてしまいがちですから、依頼者の満足が得られるかどうか心配だったものの、その松竹梅表現は、意を得たとばかりに喜ばれました。

『雀の嶋台』
『雀の嶋台』
『雀の嶋台』
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松藤の嶋台

七番御引き直衣立像男雛女雛の間に置くため、松に絡んで花房を垂らす山藤の嶋台をとの依頼でした。
幅5寸の洲浜台のことで、花房は5cmばかりですが、どこかに鏝当てしていなくては有職造花にならないとの考えから、最も花開く花房の上部にだけ、2~3mmの花弁を付けたのです。

『松藤の嶋台』
『松藤の嶋台』
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銚子飾り

『銚子飾り』 『銚子飾り』(高さ4cm)

官女の持つ三三九度用の銚子ですが、こうした飾りを付けるだけで随分様子が変わるものです。
この銚子飾りは松竹梅を基本にしていますが、あえて有職造花は竹と梅だけに止めてゴテゴテさせず、銚子に描いた松で松竹梅を叶えてあるのです。
ただ実際例としては、こうした彩色銚子などあり得ないでしょう。

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瓶子の口花

瓶子(へいし・へいじ)は三三九度の酒を入れた徳利ですが、その口を包んだのを口包(くちづつみ)、その上に紙包みした花を飾るのを口花(くちばな)といいます。節句人形では多くが桃花と柳にされますが、節句に囚われないなら季節によって口花を自由に変える事も出来るのです。

『瓶子飾り』『瓶子飾り』(高さ三宝の上から8cm )
『瓶子飾り』

松竹梅の口花
瓶子飾りの口花を松竹梅でとの依頼でした。最初は左右対称に松竹梅飾りをと思ったのですが、老松を使ってみたくて、格上の左(向かって右)に老松を、右に竹と紅白梅の口花にしたのです。
祝い事らしい趣も威厳も備え、このまま銚子飾りにしても相応しく思います。

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御引直衣立像と盛花

昭和初期頃、丸平大木人形店で作られた珍しい装束による立像に組ませた桜橘は、籐で作った球体に造花を植え付け三宝に乗せた様式です。雛人形での桜橘は、本来御所紫宸殿前の左近の桜、右近の橘を象徴するものですが、それを供え物の一つとして装飾的な扱いとした様式です。

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手持ち牡丹

この居稚児は、丸平さんに残されていた名人頭師十二世面庄のおぼこ七寸という大きさの雛頭を使って制作されたものです。本来は扇を持ちますが、華やかにするため紅白の牡丹を作って持たせてあります。素材は絹サテン。蕊にも岩絵の具による花粉を施してあります。

『稚児牡丹手持ち花図』(十二世面庄頭丸平七世大木平蔵作尺居稚児)
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官女と桜立木図(丸平五世大木平蔵作)

丸平大木人形店に残る写真帖からのもので、有職造花は昭和初期雲上流の制作。花数などいくらもないのに極めて端正な配置で無駄がありません。注目するのは下草で、レンゲの花が見えることです。当時はこうした桜まで、花びらを一枚一枚型抜きして鏝当てしています。

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御殿飾り曲水の宴

昭和初期丸平五世大木平蔵時代に作られた御殿飾りで、手前には庭園を飾る様々な木々が有職造花によって植えられています。御殿の規模や完成度も凄まじい水準ですが、こうした依頼が来る時代というのは有職造花師にとっても制作者冥利に尽きる時代といえたのかもしれません。

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木彫り彩色花見人形

丸平五世大木平蔵時代に、岩崎小彌太の依頼によって制作された組み物ですが、姫君が多くの腰元と共に花見に繰り出した場面です。中央に桜の立木が据えられますが、この人形は晩餐会を彩るためテーブルの中央に並べられるものでしたから、向かい合う方との視野や会話の妨げにならないよう、立木は背を低く作ってあるのです。最小限のパーツで感嘆に値する完成度が見られます。

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子ども大名行列

五月人形として、昭和初期丸平が制作したものですが、雲上流による有職造花造花は松とツツジかと思われます。有職造花に使われる原木は、とにかく形のよいものを用意出来なくてはなりません。この松なども、太い幹の一部分が使われているのですが、実に生かし方が上手です。

子ども大名行列
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檜兜(ヒノキカブト)

皇室では男子が誕生すると、今でもこの檜兜を誂えるしきたりがありますが、檜兜のてっぺんに飾られるのがダシと呼ばれる有職造花です。今では牡丹や菖蒲に蓬と皐、梅などしか見られませんが、江戸の頃には上級の公家に男子が誕生するとその後何年も檜兜の新調やダシの献上が続いたらしく、ダシの種類も“唐子遊び”“桜に琴”“松にインコ”“梅に兜”“菊に鶴”“雲に麒麟”などと実に様々な物の記載が孝明天皇六歳の時の献上物記録に見られます。そうした組み合わせがどこに由来するのか分かりませんが、いつか全て復元してみたいと考えています。

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牡丹

檜兜用に初めて作った有職造花ですが、何せ檜兜が手元にありませんので、実際にダシを刺してサイズや構成の検討が出来ませんでしたので、うまくいっていません。要望もあって、牡丹は雲上流の伝統的な形を敢えて踏まず、オリジナルでしてあります。葉は端布を利用していて、全て手で刻んでしましたので葉数は320枚ほどあります。

『檜兜 牡丹』(林直輝氏蔵)『檜兜 牡丹』(林直輝氏蔵)
『檜兜 牡丹』(林直輝氏蔵)
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紅梅白梅

檜兜用のダシです。孝明天皇の節句に贈られたというダシに“梅に兜”という記載が見られますが、こうした梅の枝に兜を乗せた形でなしに、兜を主体にして梅一枝を添えた形体かもしれません。ただ、兜の上にまた兜というも妙なことです。これは決まりものでない梅のダシを…という依頼で構成したもので、梅の古木を使いその枝振りに逆らわず花を咲かせてあります。

『檜兜 紅梅白梅』(林直輝氏蔵)『檜兜 紅梅白梅』(林直輝氏蔵)
『檜兜 紅梅白梅』(林直輝氏蔵)
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蓬に菖蒲

言うまでもなく端午の飾りです。最初は、緑と紫だけだと色彩に乏しい気がして、場合によっては何輪か皐を…と考えていたものの思いの外スッキリとまとまり、この方が端午には相応しいかとそのままにしました。私の場合、完成のプランなど漠然としているのが常で、構成するうちに閃いて形が出来ます。ですから、同じものを…と言われると困ってしまいます。

『檜兜 菖蒲』(林直輝氏蔵)『檜兜 菖蒲』(林直輝氏蔵)
『檜兜 菖蒲』(林直輝氏蔵)
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菊に鶴

孝明天皇に献上されたダシの記録にある「菊と鶴」を私なりに作りました。人形研究家である林直輝さんから古い毛植えの鶴が送られてきた時、渡りに船と咄嗟に思いついたのが「菊に鶴」の再現でした。支柱の先端に薄い板を土台に三羽の鶴を組み合わせ、周囲は小菊のみにして色も陰陽道に則り緑黄赤白紫としたせいか、鶴の古さも気になりません。

『檜兜 菊に鶴』(林直輝氏蔵)『檜兜 菊に鶴』(林直輝氏蔵)
『檜兜 菊に鶴』(林直輝氏蔵)
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紅葉のダシ

様々なダシの連作ですが、紅葉の立木を基本にして雅楽の舞に使われる鳥兜を載せ、源氏物語「紅葉賀」に見立てました。この組み合わせは江戸時代の記録に残り、その再現で作ってみたのです。

『檜兜 紅葉賀』(林直輝氏蔵)『檜兜 紅葉賀』(林直輝氏蔵)
『檜兜 紅葉賀』(林直輝氏蔵)
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孝明帝の檜兜復元の記

 檜の薄板で作られる「檜兜」は、古式の端午の節句飾りです。そのすがたは、おそらく神事に用いる幣帛をかたどったものであり、それゆえに清らかな白木を用いたと考えられます。兜の天辺に「出し」と称する造花を挿して、これを神の降臨の目印とし、兜そのものを神が宿る依代(よりしろ)としたのです。
 近世・近代を通じて、檜兜は宮中や上流公家などのごく限られた世界のみにおいて用いられたため、民間にはあまり知られることもありませんでした。またその素材と形状が長期の保存に適さぬため、江戸時代の実物遺品もほとんど確認されておりません。江戸時代の宮中における檜兜の実態がいかなるものであったのかという問題は、節句飾り史を研究する私にとって、きわめて重要なテーマでありました。
 文献上のわずかな記録や絵画資料等から類推するのみであった状況に、突如として核心とも申すべき資料が出現したのは、平成20年5月のことでした。京都で有職御木具師として代を重ねる橋村家の当主・橋村萬象氏の襲名記念展が開催された際、茶道具を中心とした作品とともに、家伝の文書や木型なども展示されたのですが、そのなかに何と江戸時代の檜兜の木型が含まれていたのです。しかも、木型に記された墨書によれば、それは天保12年(1841)に近衛様(=近衛家26代・忠熈公)より東宮様(=熙宮統仁親王、のちの孝明天皇)へ献上された檜兜でした。
木型があり、文書があり、さらに代々受け継いできた確かな技があるという奇跡―驚いた私は、橋村氏にその重要性を申し上げ、是非とも復元して下さるようにお願いしました。その結果、三代橋村萬象氏の弟であり、幼少より兄上とともに家職に勤しんでこられた橋村佳明氏(昭和42年生)が、私の申し出に快く応えて下さることとなったのです。
そして、文書の精読や材料の準備、試作等に約3年、復元製作に約1年をかけて、幻の献上檜兜はついに平成24年4月、見事に復元されました。
本復元にあたり、橋村氏の優れた技量とともに特筆すべきは、その加飾部分をも当代最高の技術者に手掛けて頂けたことです。
箔押しと彩色は宮廷の好尚に適い、どこまでも典雅であらねばなりません。個性を発揮しようとする通常の画家ではなく、大和絵の美の再現に努められる有職彩色絵師の林美木子氏であればこそ、木具師の仕事も一層引き立つのです。
「出し」は根引きの花菖蒲を二束、兜の鉢上で交差させるという類例のないものでした。蕾や葉の数まで細かな規定はあるものの、その色彩や形は全く作者次第なのです。自然界の生命感を保ちながらも、様式美にみちた格調高い作品を生み出す有職造花師の大木素十氏により、まことに端午の節句に相応しい清新さが得られました。
私個人の希望から始まったこととは申せ、復元された檜兜は、江戸時代後期の宮廷文化の具体的な「かたち」を伝えるとともに、平成20年代において、その製作に必要な技術が確かに継承あるいは保持されていることを示す貴重な資料となりました。
かつて斯様な檜兜が用いられた世界において、その贈答が再び嘉例となり、洗練された美と高度な技、そしてそこに込められた「こころ」が幾久しく伝えられてゆくことを願ってやみません。

林直輝氏(吉徳資料室学芸員)による解説

『檜兜 孝明帝』(林直輝氏蔵)『檜兜 孝明帝』(林直輝氏蔵)
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