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■ 近頃のこと

2025/04/25

初夏は巡り来

4月10日を過ぎた辺りから、水田に耕作機が動き始めたと見れば、あっという間に耕され、水が張られ、あちこち田植えが済んでいるのです。

耕作機はそれこそとんでもない値段らしいのですが、人力ばかりで水のない田を耕し、苗床を作り、種籾を蒔いては油紙で覆い、それをパンパンに押し上げるまで育った苗を取り束ねて、やっと田植えに漕ぎ着けられるといった昔など嘘のように、昨年秋に稲刈りされたままでいた田んぼは、あれよあれよという間に、早苗の風景に変わってしまいます。

もう40年近い前、当時の友人に書道の手ほどきをしていたことがあったのですが、彼が参加していた書道誌に毎月の競書があって、その課題として漢詩の5字を半紙に書くのですが、ある時手本に取り上げられた漢詩は『白水明田外』『極目無氛垢』というのでした。

どんな漢詩の一部で、何を詠んだのか調べることもせずにいたのでしたが、ちょうどその頃、中国からの留学生数人と話す機会があったのを幸いに、その漢詩を見てもらうと、何という偶然か、詠い上げられた地域の出身だといわれる方が居られて、語ってくれたのです。

見渡す限り田んぼが広がり、そのはるか彼方には未だ雪を被った高い山々が見え、その麓までも続くかと思われる田植えを控えた田んぼには、満々と水が張られて白く映る。

どれだけ目を凝らそうと、その見晴らしは一片の塵にも邪魔されることはない。

何しろ中国のことですから、推して知るべし表現の大袈裟度合いかと思いきや、田植えを控えた時節ならでは、その地の初夏の景観や情緒を詠った的確さに、何ら違うことはないと言われたのでした。

その方々は、不幸にも文化大革命の時期のインテリ層でしたから、殊更迫害を受け拷問すら経験していたのでしたが、Mozartなど名前すら知らず、図らずも文化大革命の罪深さを現実に体験したのです。

さて、田植えから思わぬ思い出に至ってしまいましたが、平安時代には、初夏の頃から童女が身にまとう、前身頃を3.6m,後身頃を4.5mも引く、汗袗(かざみ)という装束があったのです。

汗衫とは、貴族階級の女児用の薄手の上着で、 元来は汗取りとして着用されたものだったようですが、軽便な上着として子供服に採用されたのが高級化して、貴族女児の正装となったのだとか。

何時もながら七面倒臭い有職ならではの決まり事はさて置いて、昭和の中頃に出版された装束の写真集にある汗袗は、二十歳前の若い女性が着用しているのです。

私は常々、丸平大木人形店250年の歴史の中に、どうしても残して欲しいと思う人形があったのですが、それこそ夏物の闕腋の袍と汗袗だったのです。

夏物の闕腋の袍は、2015年12月、ヤフーのオークションに突然現れた武官立像によって、丸平大木人形店が五世大木平蔵時代に、夏物の闕腋の袍を残してくれていたことを驚き知ったのと同時に、この上なく得難いコレクションにも出来たのでしたが、それ以来、望みは汗袗の丸平雛だけに、いよいよ絞られたのでした。

当時丸平さんから預かっていた明治期の四番雛頭に、美しいけれど使い方の難しい、一種独特な『癖』のある頭(かしら)があったのです。

それを汗袗に使うには、幾らなんでも大人に過ぎましたし、しかも髪はおすべらかしに結ってこそ最も映える頭でしたから、尚更汗袗をまとわせるには無理ばかりなのでした。

他に汗袗に相応しい頭があったわけでもなし、何より二度と御蔵入りさせたくない思いがありましたから、何とか汗袗に使う術はないものかと考え始めれば、とうに汗袗を着られる歳を過ぎたればこそ、人影のない昼下がりに密かに羽織ってみた...という設定が浮かんだのでした。

女性の身長を140㎝と仮定して汗袗の寸法を出してみれば、前身頃が115㎝、後身頃144㎝にもなりました。

左手に切箔を散らした装飾的な懐紙入れを持たせ、右手には39橋の大きな檜扇を翳させて、ほとんど顔を隠すポーズに仕立て直せば、その恥じらいが何やら殊更に艶めいて見えたのでした。

装束の写真集にある汗袗

汗袗 全身

汗袗 後姿

汗袗 アップ

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