先日、YouTubeに1960年代のフレンチ・ポップスやサンレモ音楽祭の受賞曲などが思い掛けなく見つけられて聴いてみたのです。
フランス・ギャル、シルヴィ・ヴァルタン、ボビー・ソロ、ウィルマ・ゴイク、ジリオラ・チンクェッティなどなどによって歌われる歌詞で綴られる恋心や様々な想いが、今の時代からすると何とも控えめで、また、抽象的な言葉にとどめているのに驚かされてしまいました。
ひたすら頭の中で、ああでもないこうでもないと、『夢見心地』に恋心を空回りばかりさせていたり、それがやけに子供っぽかりもするので、あの頃のティーンエイジャー達は、こんなに初心(うぶ)だったのだろうか、またそれに共感出来たのだろうかとか驚かされたのです。
当時の曲は、単純な旋律の上に、決して具体的に実情を語り尽くすような類ではなく、漠然としたまま多分に詩的なロマンチックの範疇にとどめられていて、ひたすら好意的ばかりに捉えられる『絵空事』の域を出ないでいるとでも言ったら良いでしょうか。
それ故、あたかもモノクロ映画に現れた空や草原の色彩が、カラー化された画像のように特定されることなく、大げさに言えば、観る者の感性によって、観る者の数だけ違った色で有り得たように、恋の想いにしろ、聞き手の数だけの共感が生まれただろうと思わずにいられなかったのです。
そして何より、その『それぞれの共感』が加えられて初めて、曲が完成するような作り方だったのではないかとも感じたのです。
しかし、何もかもに、そこまで面倒をみないと理解してもらえないものかというような説明がなされるのが当たり前になってしまったのは、いつ頃からだったのでしょう。
歌詞がやたらと饒舌に膨れ上がるほど旋律は失われ、『誰にでも分かり易く』というより、手取り足取りしないと伝わらない人達だけを相手にしているようにすらなっているのです。
説明が事細かく成されれば成されるほど、誰もが同じところに導かれる事になるでしょうし、その『画一化』に、疑問も抵抗も感じなくなってしまっているのが『今時』なのだろうと思えてしまうのです。
個々の感性よりも画一化を望むだなど、自ら進んで人間ならではの能力を、資質不足のカモフラージュに売り渡したというに過ぎないでしょうし、甘やかされた者の末路は退化ばかりという証明になるだけのこと。
夢見られないほど、現実や打算ばかりになってしまったのが現代人ならば、空から見た都会が、あたかも焼き上がったお骨を敷き詰めたようにしか見えないのは、未来の象徴以外の何物でもないのだろうと思えば、これでは伝統工芸が残る隙間など有り得る筈がないと、今更のように諦めるのです。
さて、気がつけば庭の女郎花が一気に満開になり、異常な暑さ続きながらも、日に日に夜明けは遅くなり、夕暮れは早まり、早朝吹き入る風には、ハッとさせられるほど、秋めいた筋が混じり始めています。
とは言え、この熱暑からの解放までには、少なくともまだひと月は辛抱を強いられるのでしょうけれど、今年はエアコンの恩恵に浴して、外気とは無縁の涼しい室内で、細々制作を続けています。
12ヶ月を彩る一輪挿しシリーズは、竹筒の花器用、瓶子用、そして丈七寸程の極めてシンプルなひと枝という、奇しくもテーマこそ重なりながら、三者三様の依頼によっての制作ですが、どうしたわけか、どれもが涼しげに仕上がります。
どうやら心持ちばかりは、とうに秋の高い空にでも飛んでいたということなのかもしれません。