嶋台は、結納や婚礼の際の杯置きというのが本来の役目とのことですが、洲浜台の上に松竹梅とか鶴亀の吉祥物を華やかに置くので、次第に武家や豪商に下り、その婚礼等はおろか、やがて吉原などの遊興の場の飾り物としてまで、取り入れられるようになったようです。
奈良蓬莱が、吉原で『喜の字屋』という別称で客から金を巻き上げる道具として、思いも掛けないような独自の発達を遂げたように、嶋台もまた遊興の場に置かれた図が幾つも見受けられるのです。
そこに見る嶋台は、随分と大きな洲浜台の上に、自由な配置と組み合わせで飾り立てられているものですが、何しろ遠近法が無視された日本の絵画上のことですから、描かれたままを当時の嶋台そのものと鵜呑みに出来ないのでしょうけれど、漂う遊び心とでもいうようなセンスに驚かされ、私はそれにも惹かれてしまうのです。
どんなサイズや構成の嶋台であれ、全体像を決めるのは中央に据えられる老松ですから、こと日本美術という広い範疇で様々に登場する老松には、例えば京唐紙に見る文様化、簡略化された枝ぶりなどにまで、敏感に目を引かされざるを得ないのです。
さすがに京都というべきか、以前頂いたお菓子の包み紙に、最低限の筆遣いで描かれた松が散らし書きしてあって、それが何とも達者で見事だったので、包装紙を取って置いてあったのです。
先日、五人囃子の座る腰掛けとか、女雛の着る袿(うちき)への絵付けのため、どうでもその老松を描いてみようと模写を始めたのですが、空で描けるようになるまで200程も描いたでしょうか、そのうちに、もっと浜辺を這うような老松を加えたくなって、オリジナルの図案を捻り出してみたのです。
珍しく、結構気に入った図案を思い付けたのですが、それを描いているうち、遊興風俗図に描かれた嶋台が頭の中に浮き上がって来て、こんな老松を据えた嶋台を作ってみたい気持ちが湧き上がるのと同時に、あらかたの構成まで出来上がってしまったのでした。
嶋台を作るには、先ず蓬莱山などの飾りを置く洲浜台がなくてはならないのですが、以前手元にあった洲浜台は皆京都から頂戴したもので、それを使い切ってしまってから新しい物をと願っても、今時洲浜台を作ってくれる方など見つかりません。
困った挙句に、昨年菖蒲兜の飾り台やら、丁寧な作りの桐箱を安価で納めて頂いていた大分の指物師の方に、こちらで引いた図面をお渡しした上で、組み立てやらはこちらでするので、パーツの切り抜きだけ請け負って頂けないかとお願いしてみたのです。
幸運にも快く引き受けて頂き、それで出来上がった幅尺八寸(54㎝)の洲浜台があっての制作でしたが、掛け蓬莱を作るために、松と紅梅白梅のパーツを余分に作ってありましたので、オリジナルの嶋台は、あっという間に仕上がってしまいました。
出来上がった翌日が、縁あって去年から出品している地域の敬老会でしたので、屏風と茱萸嚢を出品することになっていたのに、出来立てほやほやの嶋台まで加えて頂いたのです。
月次図を描いた三尺屏風一双に茱萸嚢が掛かり、その中央に真新しい嶋台が据えられた展示は、そこだけが別世界のように見えましたが、前に置かれた作品名と作者名の印刷物に、『地域高齢者作品』とあったのには、確かにそうなんだけれどと思いながらも、思わず苦笑してしまったのでした。