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■ 近頃のこと

2016/11/15

老女の頭(かしら)作り

人形の頭(かしら)で、桐のおが屑を糊で練って型抜きされたものが土台にされるのを練頭(ねりがしら)といいますが、頭師と呼ばれる専門職人が、抜きん出た造形資質の上の熟練で、数多くの工程を延々と重ねて面相まで仕上げる、究極の胡粉工芸とでもいうべきものです。
しかし、そんな資質がそうそう有るわけではないし、人形自体が衰退するばかりの上に、エアコンの風でヒビが入ってしまうなど、現代の生活環境に順応出来ない宿命も致命的で、半世紀近い前に石膏頭に変わって、今や頭師と呼ばれる職人にそんな技術は殆ど受け継がれていません。私がして来た古い頭の汚れ落としや胡粉の塗り直し、その延長での改作なども、見よう見まねの範疇というものなのです。
以前、十二世面庄(S20年没)という名人頭師による武内宿彌の練頭で、ヒビ入ってしまったものを修理に預かったものの、何度胡粉を塗り直そうとまた同じ所が割れるので、反故にした事があったのです。しかし、折角の名人頭師による土台だし、硝子眼も無駄にしたくなかったので、何れ再生させる機会も有るかと、殆どの胡粉を削り落とした状態で保管していました。
去年、能『姨捨』とかを題材にした老女の坐像を誂えたくていた時期があったのですが、それを叶えるには老女の頭を自作しなくてはなりませんでした。先日、明治時代に作られた雛頭の修理で下塗り胡粉が残ったのを幸いに、保管していた頭を持ち出して、老女を作り始めたのです。何分にもおどろおどろしい物の多い能面のこと、人形にして無難ながら能面の写しであることも分かるものにしたい意図から、モデルは宝来作の面『老女』にしました。もちろん能面を彫るように完全な写しを目指すのではなく、あくまでも十二世面庄の土台を活かすという前提での改作です。
こう言っては何ですが、そもそも老人の面のことで、若い男女の面ほど表面を磨き上げずに済むでしょうし、素人の初体験という技術の稚拙さも利用出来るだろうと踏んでのことでした。モノクロの写真をモデルにして、輪郭や目鼻立ちまでおおまかな造作を終えてみると、それが亡くなった母に似ているのにハッとさせられてしまいました。モデル無しに人の顔を作らせると、必ず自分に似たものが出来るのだそうですが、そんな類なのでしょうか。京都には『頭師の女房は美人でなければダメ』との言葉があるのだそうです。頭師が生み出す頭は、普段から一番見馴れている者に似てしまうので、奥さんが美人でないと良い顔が出来ないからなのだとか。実際に頭師の奥様方がその通りなのかどうか...きっと忘れた方が良いのでしょう。
ともかく出来上がった頭に白髪を結ってみましたが、ここまで来ると人形に仕立ててみたい気持ちが募ります。『姨捨』では、座り込んだまま月を翳し見る仕草があるのだとか。それがどんなか分からないので手が彫れません。来月の上洛で、それを伺うのが楽しみでならなくています。

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