私の丸平コレクションのうちでも1、2を争う水準の『馬上の大将』とは、20数年前の今頃に訪問した丸平大木人形店で、衝撃的な出会いをしたのでした。
どうしてそんな話になったのか、恐らく横尾さんという、かつて主に五月人形に使われた馬を作られていた職人さんの話からではないかと思うのですが、馬といえば近頃京都のオークションで、良いのを落札したという話になり、それで見せて頂いたのが、五世大木平蔵時代に作られた『馬上の大将』だったのです。
五月人形になど、全くと言ってよいほど興味が無かった私でさえ、その白馬にも甲冑姿の大将にも、即座によくよく感心させられてしまい、写真のカラーコピーを何枚か頂いて帰路に就いたのです。
どんな具合にスイッチが入ってしまったものか、戻る新幹線の中からどんどん頭の中に『馬上の大将』が膨れ上がって、ほんの数日後には、『馬上の大将』を何とか譲って貰えないだろうかと、丸平さんに懇願していたのでした。
12月の中頃だったでしょうか、それが家に届けられた時、思い掛けず丸平大木人形店からのお歳暮として、特別製の『掛け蓬莱』を頂いたのです。
初めて目にした『掛け蓬莱』は、物凄い量の五色の苧(お→麻のこと)が、大量の稲穂と共に、若松、紅梅白梅、笹、更に橘と福寿草という蓬莱飾りの下に垂らされた、総丈200㎝にもなる圧倒的な有職飾りでしたから、すっかり度肝を抜かれてしまいました。
関東には、正月に『掛け蓬莱』を飾る習慣などありませんが、本来の『掛け蓬莱』は有職造花による蓬莱飾りの下に、山中に自生する日陰の蔓をたわわに下げたもので、京都では正月の縁起物として庶民の生活にまで根付き、大量に作られ売られたようですけれど、それは至極簡素な蓬莱飾りに、チョロチョロと僅かな日陰の蔓を付けただけの、小さなものだったようです。
暮れになると大原辺りからも日陰の蔓売りがやって来たのだそうで、重さでの量り売りのため、路地裏の水道で、日陰の蔓にたっぷりと水を吸わせている日陰の蔓売りの姿が見られたりしたといいます。
自然の植物のことですから、当然温かな部屋の中では直ぐに枯れてしまって、長く飾れないとか、大量に使う規模のものほど毎年誂えるのが面倒だとか、経済的な負担が大きいといった問題が、日陰の蔓に替えて五色の苧を使った有職飾りの登場に繋がったのでしょう。
頂いた『掛け蓬莱』は、その後何回もの丸平雛展で、展示の最初に飾っていたのですが、勿論私も『掛け蓬莱』を作ってみたかったし、時折制作依頼もあったりしたものの、何しろ五色の苧が手に入らず、又あまりにも麻が高額に過ぎて、制作の願いが叶うことはなかったのです。
手に入らない苧の代わりに、絹スガ糸とか紬仕立てにした絹を五色に染めて使う苦肉の策で幾つか作ったり、丸平さんから頂いた掛け蓬莱の有職造花部分を作り替えたりしてはいたのですが、先月ひょんとしたきっかけで、丸平さんから五色の苧が届いたのを機に、初めて『掛け蓬莱』を頂いてから20数年を経て、やっとオリジナルの掛け蓬莱制作が叶ったのです。
『掛け蓬莱』の蓬莱飾りは、若松に紅梅白梅、笹、橘、福寿草という組み合わせが伝統とはいうものの、流れ作業で作れる量産が基本にされた決まり物で、別段凝った造りの有職造花ではありません。
勿論、パーツの完成度には著しい差が認められますし、決まり物には決まり物ならではの良さがあるのは分かるのですが、一品物ばかり作っている私には、どうしても代わり映えのしない退屈が勝って、面白くないのです。
せっかく染めたての五色の苧が手に入ったのですし、しかも行先が新築された日本舞踊の稽古場と決まってもいましたので、より威厳と格調を込める意図から、若松を老松に替えた全く新しい蓬莱飾りを目指したのですが、土台となる自然木にドンピシャの枝があったのです。
鶴を止まらせれば嶋台に見紛う様な、自分でも至極満足のいった蓬莱飾りに仕上って、無事に木の香漂う新築の稽古場に納めることが出来たのですが、こうした有職造花で仕上がってしまうと、あくまでも伝統的なものが『掛け蓬莱』に正統なのであろうと、もう決まり物の『掛け蓬莱』に戻る必要など私には無いように思うのです。
そうこう考えながら、『老松の掛け蓬莱』が出来上がった翌日には、花器に活けて正月の床の間に飾りたいという依頼の大和橘制作に取り掛かっているのですから、オリジナルの掛け蓬莱制作も、既に過去のことに過ぎないと思いきや、その花器は『老松の掛け蓬莱』の下に置くのだそうですから、トータルの完成といったら、まだまだ先の事だったようです。