今年の元旦は、早朝6時半頃の電車で東京に向かったものですから、思い掛けず初日の出なるものを車中から見たのです。
たまたま、何が何でも行かなければならない用事が元朝だったというだけで、初日の出に思い入れなどまるでなく、そもそも若い時ですら、寒い朝に温かい布団を離れて、わざわざ初日の出を見に外出しようだなど考えもしなかったのです。
毎年毎年出不精が進む今といったら、それを押して出掛けたところで、留守番させている猫が心配で堪らず、大好きな木賊温泉に浸かりながらすら、そればかり思うようになってしまいました。
もう何年も前から、1泊の外出ですら決断が容易でなくなっていて、2泊以上家を空けるとなるとまるで決心がつかず、そうやって遠方への外出を後回ししているうちに、いつまで経ってもメンテナンス訪問が果たせなかったり、訪ねるべき人に死なれてしまい、取り返しのつかない後悔に苛まれたりしていながら、それでも外出を億劫にするのです。
そもそもこういうのが『老け込んだ』という事なのだろうとか思いもするのですが、とにかく心惹かれた制作を黙々と続けていれば満足なだけで、日常生活とか、制作上のインスピレーションとかとなると、歳を取るほど自由になるものですから、頭の中はまだ錆びてなどいないように思っていても、傍から見たら目一杯錆び付いてるのでしょう。
さて、1日僅か40円程の負担で、CMなしに何時でも視聴出来るYouTubeというのは実に有り難いもので、スマホでのGoogle検索もそうなのですが、図書館に出掛けて資料を探すこともなく、家に居ながら映像によってまで、いとも簡単に疑問を解決させてくれたりまでするのですから。
私の丸平コレクションである、二番親王尺三寸二十八人揃は、桜橘や口花などの有職造花類は言うまでもなく、手足や様々な小道具類なども私の手になる物が多く、とりわけ楽人の手の制作と楽器への彩色では、雅楽の知識がまるでありませんでしたから、資料を探し出せてやっと作れたという連続だったのです。
しかし、楽器の展覧会パンフレットに到るまで漁っても、楽太鼓の画像は正面からばかりで、胴にどんな絵付けがされているのかが中々突き止められなかったとか、琵琶の撥(バチ)を持つ手や、和琴、箏の左右の手が、演奏の際どんなでいるのかも、雅楽演奏の全体画像ばかり載せられた資料では、肝心なところが分からずじまいだったのです。
それが先月、何気なく開いたYouTubeのホームに、雅楽の楽器ごとの解説が出て来たものですから、ハッとして早速見れば、箏(そう)ときたら座り方から琴爪から、やっと突き止められたと思っていたところが尽く違っていて、その間違いの程は過去の『近頃のこと』に幾つも残されている通りです。
そもそも雅楽の『箏』は、目まぐるしい旋律が与えられ、それを弾いてのける『琴』とは大違いで、旋律を奏でず、琵琶と共に楽曲のリズムを司るのだそうで、存在を主張するような音量で弾く必要も無く、胡座で十分なのでした。
又、親指、人差し指、中指に嵌める琴爪の形態もまるで異なったもので、指を入れるよう巻いた和紙の内側に布を貼り、そこに弦を搔く、竹の節を削った小さな爪を貼り付け、その外側に鹿や猫の皮を貼った物なのだそうです。
更に、箏を弾く左手は、自然な形で琴柱よりも左の絃の上に置いているだけなのですが、右手はというと、弾き始めと弾き終わり、また休符の時も、静かに指を畳んでは、薬指と小指だけを流れるように下に伸ばす、それが鶏の足に似ていることから『鶏足(けいそく)』というのだそうで、それは箏の象徴的なポーズなのでした。
そうした細々を、YouTubeの解説は楽曲とその演奏法共々で示してくれていたので、早速に左右の手と琴爪の作り直しに掛かり、勿論鶏足に仕立てたのが、図らずも初日の出を見た今年の初仕事になったのです。
YouTubeに雅楽を教わる...恐らくまだまだ他の楽器に、きっと幾つもの間違いがあるのだろうと懸念しながらも、二番親王尺三寸二十八人揃のお披露目に進める一歩にはなったようだと、指の画像を眺めるのですが、これでまた外出の億劫を進めることにもなったなぁと、それでは困るのだけれどなぁと、深刻さも進めているのです。