ふと気づけば、今月は伯母が亡くなった月なのです。もう34年が過ぎました。
伯母は16歳も離れた父の姉ですが、大正初期に末っ子の父が生まれて間もなく、父の父親が三十代で亡くなり、伯母が母親代わりに父を育てる事になったのだとか。そのせいか、ワンマンだった父でも、伯母にはまるで頭が上がらなかったようです。
伯母は、6人兄弟の内ただ一人の女だったこともあるのでしょう、農耕馬で駆け回るような男勝りだったようです。
呉服屋に嫁いだ伯母が、旦那さんと阿蘇に旅行した折り、観光用の馬の背に、馬子の手を借りずにひょいと乗ってしまったのだそうで、それを見た旦那さんが呆気に取られながら、『お前、馬に乗れたのか。』と言ったそうです。
伯母の祖父というのは、何しろ江戸時代の生まれですから、女に学問など邪魔になるだけだと言い張って、弟の一人など大学まで行けたというのに、伯母は尋常小学校までしか通わせて貰えなかったのです。
伯母は、ご飯炊きとか風呂焚きとか、家事の合間に祖父の目を盗んでは、弟達の教科書で独学したそうです。愚痴など口にしない伯母には珍しく、最晩年までも、教育を受けさせようとしなかった祖父に、『その気持ちが知れない。』と恨み言を言っていましたから、余程悔しかったのでしょう。
晩年の伯母は、随分私に良くしてくれたのです。伯母も書道が好きで、誰に習うこともなく古典を手本に書いていただけの私を多分に支えてくれたものですから、何か書いては伯母の枕元に届け、長々と世間話やらを交わす見舞いを続けていたのです。
伯母は、和裁の達人だったのです。それは母からも聞いていたのですが、ある時和服の仕立ての話になった時、着物の仕立てというのは、例えば四角い箱に四角い袋を被せるように、その人の身体にすっぽりと合わなければ仕立てとは言えない。首の位置とかの違いなど、見れば分かること。その箇所をほんの少し摘まんだりする寸法の加減で、簡単に合わせることが出来るのだからと話すのを聞いて、私にも伯母の達人ぶりが知れたのです。
こうした視点や分析、工夫の姿勢は、実は全ての物造りに共通することでしょうけれど、それを『当たり前のこと』と気付ける者が少な過ぎるように思います。
リューマチで床についた最初の頃、まだ鋏で紙を切ったり、その紙を捻ったり位なら何とか可能だった伯母が取り組み出したのは、工芸紙での造花制作だったのです。
伯母の造り出す花は、美術を学んだ訳でもないのに、自然の造形を踏まえた息吹きをも備えていて、単なる手慰みといった域を遥かに超えたものでした。伯母の作った月見草の儚(はかな)さといったら、暮れなずむ庭や野を彷彿とさせましたから。
やがて指は折れ固まって、鋏など持つことすら出来なくなり、寝たきりになった伯母 の口元に、一本の髭が伸びているのを目にした時、生命力の残酷さというものをつくづく呪わしく思ったものです。
伯母が息を引き取ったのは、梅雨の最中のことでした。
連絡を受けるなり駆け付け、一人で枕元に座っているところに、伯母宅の女中さんではあったものの、姉さん姉さんと伯母を慕い、伯母宅から嫁いのだという方が走り込んで来られるなり、『姉さん、長い間ご苦労様でした。』と大きな声で言って泣き崩れたのです。ご苦労様とは、逃れられなかったリューマチとの格闘の日々を思い遣った言葉だったのでしょう。滅多に見舞う事もなかった嫁いだ娘が、伯母が横たわる部屋の廊下に立ったまま『一度はあることだから。』と他人事のように言ったのとひどく対照的だったのです。
しかし、伯母の造花を感心しながら見ていただけの私が、それから数年後に有職造花と廻り合い、やがてその制作者になるのですから、人生の巡り合わせというのは、およそ予測など及ぶものではないと思い知るのです。
伯母の造花に、たった一度だけ要望を伝えたことがあります。ザクロの花を作ってはどうかと持ち掛けたのです。色の限定された工芸紙でしたから、黄緑と朱色の紙はそれに適しているように思いましたし、自然の造形も情緒をも叶えられる伯母の造花に相応しく思ったからなのです。
伯母がザクロの花を作ることはありませんでしたが、ザクロの花の時期になると、私はずっとそれを思い出し続けていました。
そんな先日、駅に向かう道端から、私の目にザクロの瑞々しい青葉が飛び込んで来たのです。屏風を描き終え、手持ち無沙汰に耐え難くていたこともあったのですが、次の制作はこれだと思いました。伯母に制作を勧めたザクロの花作りは、私に廻り回ったのです。
そうした廻り合わせというのは、様々な人生に繰り返された試行錯誤という迷路が、幾度も幾重にも交差を重ねているうち、知らないうちにどこかで繋がっていた一つが、たまたま表出したに過ぎないのかもしれません。
ザクロの花の造花は、伯母に提案してから40年ほどを経て、提案した私によって平薬に完結したのです。