虫の音とかススキの穂の出始めというのは、まだまだ暑さの残る、秋など名ばかりの頃のことで、秋たけなわとなったら虫の音などとうに庭から消えてしまっていますし、ススキの穂の茎をうっすらと彩る、瑞々しい若緑色も見られなくなっているものです。
9月に入って立て続けに、無花果にホオジロ、山藤にカッコウの平薬を仕上げたのですが、二三日手持ち無沙汰でいるうち、突拍子もないように、狸(タヌキ)のいる風景を平薬にしてみたくなったのです。
思い付いたのは、まだ開いたばかりのススキの穂が、うっすらと若緑色に繁る向こうに、一匹の狸がこちらを見ているという光景だったのです。何故突然の狸だったのか、私にもまるで分かりません。
私の家は、前に田んぼが広がり、後ろは月や陽の出る裏山なのです。山間の道を小学校に通っていた当時には狸を見掛けるなどまるで無く、誰かが狸を見たと聞いて、遥々線路の向こうある家の山まで出掛けたことがありました。もちろん狸の姿など見ることも出来ず、雑木の山の中腹にあった穴を、これがきっと狸の住処なのだろうとこじつけて戻って来たのです。
それが、当時は考えられもしなかった、一家に1台どころか1人1台という車の普及の今になって、家の裏を真っ昼間に狸が横切るのを目にしたり、そこかしこに車に跳ねられた狸が無惨な姿を横たわらせているようになったのは、いったいどうしたことなのでしょう。
ところで、どうやら家には夜な夜な狸が来ているらしいのです。それで私は毎日縁の下に、野良猫のためのキャットフードと飲み水の他に、狸のためにドッグフードを置き始めたのですが、狸というのはどうも随分行儀が悪いらしいのです。すっかり平らげた入れ物はとっちらかす、水の中に足を入れて泥水にしてしまうと、毎朝惨憺たる有様です。
しかしそうであればあるほど、狸の擬人化に、傘を被って通い帳をぶら下げた太鼓腹とした人は大したものだと思ってしまいます。そもそも狸は太ってなどいませんし、およそメタボのステテコ親父みたいな丸顔でもありません。
昔、近所の変わり者の親父が狸を飼っていて、犬の散歩のように連れて歩いていたのです。ばったり出くわした私が撫でさせて貰おうとしたら、ダメだ、噛みつかれると咄嗟に止められたほど、狸というのは気が荒いらしいのです。信楽焼の狸とか、月夜に腹鼓を打って浮かれるとかいう発想は、ちっともユーモラスでもない狸の、いったいどこから湧いたのでしょう。
さて、秋始めならではの瑞々しい穂の再現に、ひどく黄ばんだ戦前の極く薄い羽二重を使ってみたものの、思った効果は出ませんでした。そのせいばかりとも言えず、ススキだけでは何かが足らず、考えて思い至ったのは、大好きなサルトリイバラでした。ほんの少し加えるなり、それで完成となりました。最初に目に浮かんだ光景の如く、十分初秋の野趣に満ちた平薬になってくれましたから、題名を『秋来』としたのです。
このところ、日に日に秋が押し寄せて、台風で倒れたまま咲く紫苑の向こうに、いつの間にやら金木犀が咲き始めています。それが橙色の敷物をしたように落ち尽くしたら、いよいよたけなわの秋なのでしょう。