まんが日本昔ばなしを見ていると、よく旅人や物売りらが、歩きの足を休ませるために、大きな木の根元に腰を下ろして、炎天の日差しを避けるとか、小春日和の日向ぼっこにうたた寝をしてしまうというような、季節ごとのひと休みの場面が出て来ます。
どこにであろうが、何でもかでも歩いて行かなければならず、蘭学を学びに行くのに、江戸から長崎まで歩いて行ったというのですから、そこかしこに点在したのだろうそうした場所は、砂漠でオアシスに辿り着いたような心持ちにさせるものも多かったのではないかと思うのです。
そんな場所の草むらに、しゃれこうべが転がっていたので、そこに葬ってやる話もありましたが、やっと辿り着けはしたものの、そこで行き倒れなければならなかった事もあったでしょうから、いつの間にやら独特の雰囲気が宿り、それ故昔話に再々登場するのだろうとも考えるのです。
家からはちょっと離れているので、数年に一度車で通るかどうかというような所なのですが、大きな沼の淵に義民伝承の舞台である舟の渡し場跡があるのです。
樹齢を重ねた松の大木が、沼からの風に長年吹き晒されてのことか少し傾いて、そこばかりに鬱蒼と何本も立つ、いかにも曰く有りげに思われるその場所を右に反れると、一里ばかり離れた集落に続く道が、田んぼの中を突っ切ってあるのです。
その道を重宝に行き来していた当時といったら、今よりずっと狭い田舎道で、もちろん耕地整理などされていませんから、大小様々に色々な形の田んぼの中を曲がりくねって通っていたのでしょうけれど、その中程の少しばかり地面が盛り上がった所に、大きな木が一本だけ、こんもりと広葉樹の葉を茂らせているのです。
それがいかにも、かつてはこの木陰や陽だまりで、行先までもうひと頑張りになったと腰を下ろし、安堵のひと休みをしたのだろう場所に見えて、車で通り過ぎる刹那、根元に背もたれてひと休みしている人の姿が突然現れるのではないかとか思わせられたりしたのでした。
8月終わりから2ヶ月ほど、行先にこの上なく便利ながら、運賃の高さもあって、今まで無縁でいた新設路線の電車を、駅のすぐ裏手に安い駐車場が出来たのを幸いに頻繁に使ったのですが、発車して直ぐやたらとスピードを出し始める車窓を何気なく眺めていたら、いきなりその場所がジオラマのように現れたのです。
沼の上に通された路線は、かつての街道を横に見る位置だったからなのですが、その彼方にずっと上からの視点で見ながらも、その場所だけ時間が止まったように見えました。
11月22日、厄介な病気で自宅療養中の友人が、久しぶりに昼ご飯でも一緒にというので、鄙びた駅裏に年寄り2人でやっている、これも又精一杯鄙びたお気に入りの食堂に行った帰り、晴れ渡って天気も良いし、どうでもその空に立つひと休みの木を撮影したくなって、友人を道連れに車を向かわせたのです。
初めて降り立って見れば、思いがけないほど幹は太く、うっすらと記憶していた通り、根元にはすっかり朽ち欠けて、台座のある石が墓石のように2つ並んで立っていました。
私の背丈を越すほどの石の方に彫られた文字は、見る位置を変えて目を凝らしても、それが道標やら供養塔やら、もはや判読出来ないのでしたが、もう片方は、顔などすっかりのっぺらぼうになってはいながら、紛れもなく野仏なのでした。
その昔からこの木が同じ大きさだったなら、それこそ随分な樹齢でしょうし、田んぼの真ん中という水脈を底にしながら、これほど背の高い木に育つなど異例なことでしょう。
この木に支えられた幾多の人々の想いによって、この木もまた支えられ、今日まで生き長らえられたのかもしれないとか、少し色づいてきた葉と、静まって佇む石塔に見入っていたのです。