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■ 近頃のこと

2024/11/02

鶯は羽子板の裏に飛ぶ

私は、縁起を担ぐということが殆どありません。

どうやら母もそうだったようで、その昔、少しばかり建て増しをすることにした時、どこで聞きつけたのか親戚の1人が、今建て増しをすると死人が出るから止めた方が良いと、ご丁寧に電話して来たことがあったのです。

祖母が急逝した翌々年に、今度は亭主にも死なれていた母は、これ以上誰が死ぬんだと笑って、相手にもしませんでしたから。

結局、全く記憶出来なくなる認知症で亡くなった母ですし、そうなる前から物忘ればかりしていましたから、縁起を気にしても、忘れてしまう方が早かったのかもしれませんけれど。

これもずっと以前の話、孫の初正月に羽子板を誂えたいという母に代わって羽子板市に出掛けたことがあったのです。

何せ、小学4年で押絵羽子板を作っていた私のことですから、出店している屋台を端から見て探したのは、いわゆる役者絵の羽子板なのでした。

見つけられたのは、2尺5寸とかの大きな板で、刀を抜いて睨む大名のような男の前に、大きく後ろにのけ反った腰元を載せた二人付(ににんづけ)という代物でした。

戦前に修行を積んだのだろう羽子板職人ならでは、技術を駆使した、細部に凝った造りでありながら、制作から大分年月が過ぎてしまい、その年こそ処分したかったのでもあったのでしょう、随分安い値段だったのもあって、直ぐに買い求めたのです。

仲見世の人混みの中に、一際大きな羽子板を持って、意気揚々と浅草の地下鉄駅に向かっている時になって、ふとあれは何の場面なんだろうと思えば、恐らく番長皿屋敷あたりだろうと思い当たって、縁起物としたら血なまぐさい代物ですから、それで売れ残っていたのかもしれないとか気付いたのでした。

私にとっては、いかに押絵が正統で、出来が良いかということしか頭にありませんから、それが縁起物に相応しくなかろうと知ったことではないのですが、案の定姪の親やら母やらが、板の大きさや歌舞伎の舞台を彷彿とさせる、見たこともない二人付に驚き喜びながらも、これは一体何の場面だろうと言うのです。

そもそも羽子板は祝いのものなのだし、何か縁起の良い歌舞伎の一場面だろうとか言って、ごまかしてしまいました。

自分が邪気祓いの飾り物を作って納品するようになってから、大安とか『日を選ぶ』ことが重要視される場面に何度か遭っているのですが、出来立ての湯気が立っているうちに届けたいという思いと、そんなことでクドクド言われるのなら買ってもらわなくて結構との思いでいるものですから、縁起をかつぐ感覚は一向に身に付きません。

さて、いつもながら長い前置きになりましたが、思い掛けず松竹梅の羽子板をという制作依頼が入ったのです。羽子板の依頼など、もう十年ぶりほどでもあるでしょう。

けれど、今までに作って来たような典型的な松竹梅の羽子板などもう作りたくもなかったので、依頼者が江戸琳派をよくご存知だったのも幸いに、酒井抱一が描いているような松竹梅ではどうかと提案すれば、早速賛同されながら、抱一の松竹梅画像まで探して送ってくれたのです。

絵を立体に写す場合、2次元という遠近の無視で成り立ってしまう絵空事と、3次元である立体の現実とは、どうしても再現に無理が生ずるのは当たり前な上、ましてや様式化された琳派の絵のことですから、松やらの形態にしても同じに出来るはずもないのですが、先ずは梅や松にする枝を梅の古木から探してみると、抱一も描いている琳派ならではの曲線を彷彿とさせる枝を見つけたのです。

勿論形も大きさも絵の通りなどではないのですが、私はどうしてもそれを活かす羽子板にしたくなってしまい、いわば酒井抱一の松竹梅を意臨に徹して写すという路線に変更させて貰ったのです。

羽子板の表は、経年に黄ばんだ絵絹に見えるよう、古い縮緬を貼ることにして、その上から裏の竹山で切り出した節目の詰まった竹を彩色して置き、松に見立てた梅の幹、そして琳派風に曲がりの叶った梅の枝を打ち付けたのです。

さて裏絵はどうしようと、羽子板も専門である友人に相談するうち、鶯はどうかという助言に閃いたのが、右上に1羽だけ鶯を飛ばすプランなのです。

羽子板の表に咲く白梅に飛び来る鶯というわけです。

スッキリとした仕上がりは、依頼者や友人のお褒めに預かれたのですが、それにしても絵の下手さといったら、いつもながらガッカリしたのでした。

羽子板表

羽子板裏

羽子板横

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