物心ついた頃には既に、生家の庭には大きなオオデマリの木があったのです。今頃の季節には淡く鶯色めいた白い花を、突然のようにびっしりと咲かせてくれていたのですが、それが昨年の颱風で倒れてしまったのです。
どうやら根元が虫にやられていたようで、倒れた木を起こすと同時に、太い幹がいとも簡単にポッキリと折れてしまったのでした。鬱蒼と繁る八重の山吹と同様に、小さい頃から毎年当たり前のように庭の隅の同じ場所で賑やかに咲いて、一際私の目を引いてくれていたのですから、祖母をはじめとした様々な人々や、幾多の飼い物達と共にあった子どもの頃の思い出を繋ぐものが失われてしまったようで、いよいよそんな時代との訣別を余儀なくされてしまった気持ちになってしまい、落胆も大きかったのです。
しかし、何らかの出来事のきっかけというのは、後になってみれば恰もドラマの伏線のように見つけられるもので、オオデマリの制作を考えながら見送ったのは、昨年の今頃の事だったのです。
私の制作の興味は、細かいプリーツのようなヒダによって独特の質感と色彩を見せてくれるオオデマリの葉にこそありました。とりわけ若い葉にはそれが顕著なのですが、オオデマリはとても生命力の強い木なのでしょう、倒れた木の枝を切って挿し木したうちの2本が根付いてくれて、今、元気な若い葉にそれを見せてくれています。
さてこのオオデマリの花を、私は紫陽花のように捉えていて疑いもせず、現物を確かめることなく作ってしまったものですから、パーツを束ねて手鞠にしてみた時どうも違うのです。そもそもオオデマリの花びらは5枚ですし、花びらの形も紫陽花とは似て非なる物なのですから、紫陽花と同じ鏝当てで相応しいはずもなく、そんなこんなでこのオオデマリは雰囲気だけのものというわけです。
例によって、これもまた野鳥とのコラボにしてあります。今回合わせたのはヒレンジャクという野鳥で、オオデマリの葉の色と対比させるのに相応しい羽根の色だと思って選んだのですが、ちょっと説明的な彩色に過ぎたようです。
ポーズも羽根を繕うように凝ったのですが、何気なく留まっているようなさりげなさの方が、平薬のようなものにはずっと相応しいのかもしれません。
野鳥といえば、ずっと門柱の上や屋根に古米を撒いているのですが、今や雀が待ちわびているような関係になりました。本当に用心深くて、私の姿が少しでも視野に入ったり、何らかの気配があれば直ぐに飛び立ってしまうのです。
それでも遠くに飛び去るのではなく、前の家の屋根瓦に隠れて様子を見ていたりしていて、私が家に入ってしまうとまた直ぐに戻ってきて米をついばみ始めるのですが、その動作の可愛らしいこと。あんな仕草を木彫りに生かせたらと、離れた廊下から眺めている毎日でいるのです。