構想から五年ほどを経てやっと、五節舞姫の坐像が完成しました。
丸平さんの歴史の中でも、稀に見る大型の雛組物を構成する最後の一人でしたから、同時に『二番親王尺三寸二十五人揃』が完成した時でもあったのです。二番親王立像が出来てから13年を経たでしょうか。
以前からここでお目に掛けていたこの頭は、昭和4年以前に十二世面庄によって制作された神功皇后の頭なのですが、最初は十九人揃だったものに官女や直衣の雛が増えたりしたにもかかわらず、十一世面庄頭の新たな発見などによって、これだけは使わずに残して置けたために、こうして五節舞姫として甦らすことが出来たのです。
しかしこの頭、そもそもは斎宮に仕立てて加えようとしていて、その襲ねまで決まっていたのです。ところが、五段飾りの四段目に随臣、直衣と共に据えるしかなかったため、斎宮をそんな下の段に置くのは相応しからぬ事だし、十二単を脱ぎ着せ仕立てにするにも幾つかの理由で躊躇がありました。
そんなこんな、堂々巡りに何年も考えていたある日ハタと、五節舞姫の一人として仕立てるならば装束もシンプルに済み、置かれる場所としても妥当に済むだろうと思い付いた時には、恰も開かずの扉がいきなり開いたような気持ちさえしたものです。
丸平さんでは、昭和の大典の際にも五節舞姫を制作されていましたし、七世さんも九寸のを最近まで何体か作られていましたが、尺三寸という大きさに加え、舞姫が座っているというのが七世さんには考え難い設定で、制作にあたり何よりもそこに戸惑われたようです。
言うまでもなく五節舞は五人で踊られますが、その五人に何らかのトラブルがあった場合に備え、二人の控えが選出されて待機したのだそうですから、この座った五節舞姫は、出番を迎えられずに控えているという設定でも構わないし、単に出を待つ五人のうちの一人というのでも構わないのです。
装束は、昭和天皇の即位の礼で踊られた時のものに準じ、唐衣・表衣(中陪なし)・単・裳・袴のみです。
袿を丸平さんで五節舞姫を仕立てる時と同じ、明るい黄緑に若草文様を黄色で織りだした生地にしたかったため、色の対比から唐衣には、丸平さんに残されていた濃い小豆色に小さな花の丸という生地を使ったのです。
しかし、明治時代に織られたものではないかと思われるほどに古く、また地味な生地でもあったため若干の懸念がありましたが、袿に織り出された若草文様が金色に輝いて見えるなど、組み合わせての相乗効果も生まれて、思いがけないほど美しく相応しく仕上ったのです。
裳は、昭和天皇即位時に踊られた五節舞姫が着用していたものと同じ雲文様を岩絵の具で描き、心葉は湯沢さんと いう金工師の方のご厚意で出来た真鍮に金鍍金製です。
檜扇は女性用の39橋に拘りましたので、手に翳させる厚さの問題から、橋数の紙を貼り合わせて作った本体に彩色したため、開閉は出来ません。
五節舞姫の常とは違うのですが、糸花は桃と柳にして華やかに仕立て、絵元結は現在皇族が用いるのと同じように、松を連ねて描いてあります。
いずれ『大木素十 丸平コレクション』に載せて、全貌をご紹介したいと願っています。