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■ 近頃のこと

2015/05/23

ツバメを作る

先日ある方から、色々な鳥を木彫り彩色していながら、何故ツバメを作らないのか疑問だったと言われたのです。それには幾つかの理由があるのですが、ツバメという鳥は私にとって特別中の特別であることに間違いはないのです。
もう半世紀近い前になりましたが、祖母が亡くなるまで毎年家の中に巣を作っていたツバメでしたし、当時は夜になると雨戸を閉めたものだったので、卵を抱え始めると巣に入ったまま泊まり込むようになるのを楽しみにしていたような毎年だったのですから、祖母の死によって常時の留守番を失い、そのために硝子戸を作ったことで、ツバメが入れなくなったままにしてしまった事が申し訳なく、悔やみきれない想いが今になっても胸を刺し続けているのです。
もっとも、近所の小さなマーケットで、店名の入った覆いの内側に、店主の庇護を受けながら、去年まで毎年巣を作っていたツバメだったけれど、四月でいよいよ廃業してシャッターを降ろした店先に、今年はツバメの姿など見えず、人の居ない所に巣作りをしないといわれるツバメのことですから、たとえ硝子戸にツバメが出入り出来るスペースを作ったところで、日中に人影の無くなった私の家からツバメが去るのは、いずれにせよ避けようもない事だったのではないかと思い返したりもするのです。
そもそもツバメというのは、どの国にあっても特別なインスピレーションを呼び起こすものなのか、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』にしても、あの切ない物語でツバメが使われた事は、ツバメに対するワイルドのイメージを表しているのに違いないでしょう。
高校の時の教科書に、斎藤茂吉が詠んだ『のど赤きつばくらめ二つ梁にいてたらちねの母は死に給うなり』という短歌があったのを忘れないのは、もちろん様々な記憶を色彩で捉えているらしい私だからなのでしょうけれど、ツバメを愛おしく見ることに焼き付いている色彩は喉の色にこそあって、それは家の中で見上げて目にした、黒い頭と白い胸に際立たされた喉の朱赤だったからなのかもしれません。
私の記憶は二歳半からなのですが、青竹でガラスを割った時の記憶も、母親が盲腸の手術から戻って来た時に迎え出た記憶にしろ、青竹の鮮やかな緑と瑞々しい切り口、タクシーに見る余所行きの黒という色彩に結びついているのです。
勉強家ではない私は、国語の授業でいくらも覚えているものなどないのに、短歌とか俳句ばかり記憶しているのは、そこに表れた色彩が極めて印象的だったからでしょう。『七月の青嶺間近く溶鉱炉』『常磐津の三味線の撥一様に白く光りて夜も更けにけり』『行く春を哀しみあえず若きらは黒き帽子を空に投げ上ぐ』『いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のタンポポの花』『ゼラニウム赤々と咲く校庭に夏季講習の昼のベル鳴る』など、こんな風に即座に浮かぶ短歌は幾つもあるのです。それでいながら私は、明らかに色彩に劣っているのですから、上手く行かないものです。
さて、大好きなツバメでありながら有職造花に合わせる事が出来なかったのは、ツバメだと木の枝に留まっているという光景がおよそそぐわしく思えないからだったのです。電線に連なり、喧しく世間話しているようなのがツバメなのですから。
しかし、いつも参考にしてきた図譜に、垂れ柳に合わせて描かれているツバメがあるのを見たら、出来上がっていたカワラヒワをほっぽらかして、垂れた柳の間をすり抜けるツバメと、何かに留まったツバメとの二羽を、いたたまれないように彫り始めたのです。
このツバメは、胴体のみ木彫りで羽根は厚紙。それをいつものように胡粉塗りしてから岩絵の具で彩色しているのですが、それこそ小さな頃からの記憶の蓄積の賜というものなのか、すったもんだを繰り返したカワラヒワの時と違って、至極自然に彩色出来てしまったのでした。
大きな口を縁取る薄黄色の唇を描いている時など、恰も魂を吹き込んでいるような心持ちすらして、参考にする図鑑や図譜を見るまでもなく、頭の中に焼き付いているツバメの顔によって描けてしまったのです。
出来上がりは『夏の平薬』でご覧下さい。

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