私にとって、朝顔を作るのは別段難しいこともないのですが、その蕾だけは結構厄介なのです。
いわばパラソルのように、針金を芯として巻いて行けばよいようなものの、なかなかきれいに巻かれてくれるものではありません。
巻いた布の裾は襞になって厚くかさばりますから、それをダボつかせることなく絹糸で括って端正に仕上げるのが難しいのです。
長い萼でごまかしながら括ったりしてゆくのですが、隙間無く糸を巻くことすらがなかなか上手く出来るものではないのです。
有職造花で朝顔を作る時、萎んだ花の表現は技術的にも見せ場になるのですし、何よりも朝顔で夏ならではの光景を作ろうとするのならば、当然萎んだ花は不可欠な要素なのですが、
今まで何度も朝顔を作って来ながら、実は萎んだ花を一つも交えていないのです。
クルクルと内側に巻いて萎む様は朝顔ならではの造形なのですし、それ故独特のムードを醸し出しもするのですが、
いつかはきちんと作らなければと思いながら、出来ないように思っていたところもあるにはあったり、出来上がりを急いていたりで、ずっと挑戦することなく来てしまっていたのです。
このところ、しばらく有職造花制作から離れていたものですから、何だか疼き始めた手を持て余し始めていた駅からの道すがら、
打ち上げ花火のように唐突に突きだした枝の先に、いつのまにやら咲き出した百日紅を眺めたりして歩きながらの頭の中で、
こうすれば出来る筈だと考えついた方法で取り掛かってみると、案の定何ということなく出来てしまったのです。
こうした時の勢いというのは、一種の小気味よさすらあるものです。
花には、この頃良く使っている細かい縮緬のような絹を裏打ちせずに使ったのですが、この生地が巻かれると一層柔らかな肌触りを見せて、終わった花の色褪せた感じや萎れた質感を上品な穏やかさにさえ換えて表してくれたのです。
たとえ頭の中であろうと、有職造花でのこうした試作のような行為というのは、絵画での日常的なデッサンやスケッチに相当するものかと思います。
これがどんな風に使われて完成するのか今は予測も出来ませんし、きっと何気なく花々に埋もれる脇役になるのでしょうけれど、
たった2つばかりの萎れた花を作っただけなのに、どういうわけか一つの平薬を作り上げたような充実感に満たされているのです。