人形研究家である友人は、何しろ小学低学年から新幹線で上京しては、一人で浅草橋をふらついていたという強者なのです。あらゆる人形や郷土玩具は言うまでもなく、盆提灯、ダルマ、羽子板から、箸にも棒にもかからないような酉の市の熊手に到るまで、ありとあらゆる飾り物や際物に関わっているのですが、専門である五月人形のコレクションといったら、鍾馗だけでも60体以上というのですから尋常なんて代物じゃありません。
当然鯉のぼりも専門ですが、かつては当たり前に見られた腹の黄色い手描き鯉のぼりに、珍しく職人が署名を入れている10mの真鯉を自宅脇の駐車場で広げて見せて貰った事があります。私も手描きの鯉のぼりファンでしたから、小学生の頃には鯉のぼりと見れば細部まで観察して、いったいどれだけ描いたか分からないくらい大小様々な鯉のぼりを作っていたのです。プリントの鯉のぼりが現れたのは中学に入った頃だったでしょうか、数軒先に初めて腹の白い鯉が泳いだのを見た時、随分垢抜けて感じるのと同時に、ハッとするように手描き鯉のぼりの終焉を予感したのでした。今や手描きの鯉のぼりというと、小さなセットに何十万とかべらぼうな値段が付けられて売られていますが、かつて観察しては描いていた細かい描写など、まるで見られもしないものでしかありません。何せ赤いダルマの線描きすら、まともな物が消え失せて久しいのですから、手間からして随分割に合わなかっただろう昔の鯉のぼり職人の仕事と技など、今は望むべくもないのです。それにしても、当時の手描き鯉のぼりの黄色といったら、新緑の中にそれほど相応しく映える色は無いだろうほど鮮やかだったのです。
さて今の私はといったら、鯉と吹き流しのどちらを取るかと言われて迷わず吹き流しを取るように変わってはいるのですが、菖蒲作りが苦手でなくなった事もあり、手描き鯉のぼりが当たり前に泳いでいた頃を郷愁として呼び起こさせるような平薬を作れないかと、友人を喜ばせようとの思いもあって、既に下絵まで描いていたのです。五月の空を切り取ったように、平薬の輪の上部にたなびく鯉のぼりの尻尾だけを木彫り彩色で置き、その下に菖蒲を構成したものです。しかし、彩色する段になったら、あれほど沢山作ったというのに細部が分からないのです。細部どころか、描くこと自体に違和感があるのです。とうとう友人に助言を求めたりして、たかが真鯉の尻尾だけに2日も掛けて彩色したのですが、有職造花の菖蒲と合わせようが、決して様にはなりませんでした。
鯉のぼりは平薬にそぐわないのです。公家社会で育て上げられた平薬と、庶民の節句そのものの手描き鯉のぼりとは、相容れないものなのだという事なのでしょう。
思いがけない結末に頓挫したまま、しかも次の制作にあてもない状態で庭を歩いていたら、まだまだ小菊は蕾ばかりで花はこれからなのに気付きました。今年初めてという木枯らしに、花を終えた紫苑や萩が垂れて揺れているなど、その風情は日本ならではのものなのでしょうけれど、やっぱり秋と私の相性といったら...どうもいけないようです。