いつ寿命が尽きるか分からないような病状が続いている母ですが、大袈裟でなくその記憶維持はほんの10秒という認知症の上の発病でした。昔のことはそのまま覚えているのに、今現在を記憶することが出来ません。ひたすら自分のしてきた方法に固執されるとか、ひどいときは真夜中20分おきにトイレの介護とか、そんな繰り返しの明け暮れには、精神的肉体的の双方からほとほと手を焼いて来たのですが、三度続いた入院から、ここまで弱ってしまった母を看ているうち、一人になるなり大声で怒鳴ったようなストレスまでもが吹き飛んでしまい、オムツの上げ下ろしで感じられる母の体温に、穏やかな幸せすら感じるようになるのですから、人間の感情というのは所詮意のままになるようなものではないのでしょう。あれほど『家』というものに執着した母なのですから、静かに苦しまさせず自宅で私が送れたらと、そればかり願っているのです。
その母を入院先に付き添っていた時でしたが、寝入りそうになった母が宙をまさぐるように伸ばした手を枕の横に置いた時、その手の形があまりにも自分と似ているのに気付いて驚いてしまったのです。何しろ親指の形から小指の先端が少し曲がっている角度まで似ているのです。江戸風俗や古川柳研究の第一人者だった花咲一男さんから『どうしたわけか息子というのは、母親の妙なところを受け継いでいるもののようだから、これから気をつけて見ていてご覧なさい。』と生前何度も聞かされていたのですが、私の場合は手のことだったのだろうかと即座に思い返したのでした。女学校時代の母の仮名はなかなか見事なもので、言われたことを忠実になぞってきた優等生時代のその字は、いかにも当時の手本だっただろう尾上柴舟を彷彿とさせるものでしたが、私も古筆に魅せられて書いたりしてきたのも、案外この手に要因するのかもしれないのです。出来上がった平薬とかを見せたりすると、決まって母は『いったいどうしたらこんなものが作れるのか、私にはさっぱり分からない。』と繰り返していたのですが、裁縫では馬乗り袴まで縫ったという母だけれど、絵が達者だったわけでも楽器を良くしたわけでもなく、決して器用な手だったわけではないのです。芸術系の血は父方からとばかり思っていたものですから、随分と意外で驚いてしまったのですが、『ものつくり』としての手は、きっと母からの譲りものだったのでしょう。
翌日、母の調子が良くて話している時、手が似ているというと『誰の?』というので、痩せこけた母の手に自分の手を並べて見せると『本当だ。指の形までそっくりだ。』とニコニコするのです。 丁度通り掛かった看護士さんが『あら大木さん、今日は随分良い笑顔ね。』と立ち止まるほどだったのです。寝入るまで付き添う私を気遣って『食べるものはあるのか。』と度々言う母に、料理も縫い物も何でも出来るような手に産んでもらったから、心配要らないじゃない?と冗談混じりに伝えれば『あぁ、そうだった。』と、また面白そうに笑うのです。そんな記憶も10秒で消え失せ得てしまうのですが、母のくれた手への感謝を上機嫌に伝えられたことを、つくづく安堵したのです。
さて、料理屋の小さな座敷に掛けるのに、白梅と椿を直径21cmの桐板に構成してみました。穏やかな気持ちが作るものに表れるのでしょうか、静かな佇まいにまとめられて、自分でも気持ち良く眺めていられます。