もう17年も前のことですが、親しくさせて頂いていた故花咲一男さんから、突然『菖蒲の蔓はご存じですか?』と尋ねられたのです。花咲さんが、ポーラ文化研究所発行『化粧文化』No.39 (H11.5.20発行)のために『江戸城大奥の花簪』の執筆を準備されていた時の事でした。私は、それで『菖蒲の蔓』なるものを初めて知り、それ以来女性の菖蒲の蔓については、恐らく生涯探求し続ける一つとなったのです。
平安時代、端午の節会に参内する男性は、皆冠に菖蒲の葉を挿さなければならない制度があり、それを菖蒲の蔓と呼んだのだそうです。その着用には、菖蒲葉の本数や寸法まで事細かく決められていて、それは『九條殿記』の「九暦」に「菖蒲ノ蘰造法」として「一、造菖蒲蘰之體 用細菖蒲草六筋、短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、以短筋當巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」と記載があるのですが、私には「毎所用心葉縒組等」というのが読み解けなかったのです。武官の挿頭花制作に際し、五月人形が専門の研究家林直輝氏が、是非菖蒲の蔓も...というので、再び九暦を取り出して読んでみたものの、やはり最後の箇所があやふやですから、中世文学を専門にしている友人の杉山和也君に読んで貰ってみたのです。彼も、決して解読を確定出来たわけではなかったようですが、おおよそ「菖蒲蔓は、長さ九寸の菖蒲葉四本と一尺九寸の菖蒲葉二本で作るが、巾子に巻き付けた長い菖蒲葉の前後四箇所に、短い菖蒲葉を心葉(こころば)着用の際に用いるような縒紐等で縛って固定する。」といった事だったのです。そこで、人形の身長からの比率で割り出した寸法で各々の菖蒲葉を作り、先ず長い菖蒲葉を巾子に当ててみれば、何と一尺九寸とは、ちょうど巾子を一巡りさせてまとめながら、葉先を少しばかり冠の外に余す程の長さではありませんか。事細かく寸法を定めていたのには、やはり必然性があったのです。それが疑問解明の糸口となり、何故長い葉が二本必要なのかという理由も解けて思えたのです。要するに、巾子に廻した長い菖蒲葉に短い菖蒲葉を固定するためには、二本の菖蒲葉で挟んだ方が、強度ばかりか美感にも端整さが叶えられたという事だったのではなかったでしょうか。先ず長い菖蒲葉二本を重ねて巾子に巻き付け、巾子の前では冠の前に下がる菖蒲葉が顔の邪魔にならない左右二ヶ所に、後ろは両耳近くの二ヶ所に短い菖蒲葉を差し込んで紐で括ったのでしょう。女性が釵子や心葉を玉髢に結ぶ時、多くは紫色などの絹紐によったのでしょうけれど、儀式の際の男性が日陰の蔓を冠に結んだりするのに白麻を用いた例や色彩効果上でも、菖蒲葉は白麻で結ばれて相応しかったのではないかと考えるのです。又、菖蒲葉の先端が巾子の外に出る手前に短い菖蒲葉を結ぶ事は、二本の長い葉を最後にまとめ留める役割を兼ねた合理性の証明でもあったのです。もちろん、これが正確な復元かどうかは分からないのですが、林氏にこの復元画像を送っての返信メールに「葉先の鋭さがいかにも武官の凛々しさを引き立て、あれが風で微かに靡くかと思うだけで息苦しくなります。」とあって、私の復元はその言葉だけで満たされて思ったのです。
さて、全ての始まりであった武官立像なのですが、どう考えても人形の手にあるまじき短さを不自然の決定として、袖に埋もれていた両手を引き抜き、桐材を二寸ばかり付け足して二の腕を彫り、胡粉塗りして腕の針金に付け直すことによって、活き人形のように丁寧に作られていた手を装束の外に出してみたのです。その姿からは、あえて袖の中に手を隠し入れてしまう必然性というものが、およそ図りかねる相応しさに見えたのでした。
さて、菖蒲の蔓造法を読んでくれた杉山君が、菖蒲の蔓を付けながら宝剣を持つ姿から、平家物語にある五月雨に鵺を退治した褒美に御剣を賜った際の源頼政を連想したと書いて来てくれたのですが、それを林氏に伝えるなり『それで決定!』と決めてくれたのが「源三位頼政賜御剣(げんさんみよりまさみつるぎをたまわる)」という題名です。源頼政は理知的な美男子の代名詞なのだとか。何せどんな人形だったのか分からず書きようが無くていた白木の箱の箱書きに、これほど相応しいものはないのかもしれません。