奇跡的な生命力と医師に感嘆されながら、三週間に及んだ入院から、母は今回も無事に退院出来たのです。
病室はいつもながらナースセンターの真ん前で、そこというのは目を放せない、手が掛かり続ける患者ばかり集めた四人部屋なのです。一昨年から繰り返された入退院で、一度たりとも同じ患者と一緒だったことなど無かったのですが、何時の入院であろうとも一つだけ確かな共通点があったのです。『身内が滅多に見舞いに来ない』という現実でした。
食事は看護師が面倒をみるしかなく、泣き言を独り呟き続けるうちに、徐々に起きているのか寝ているのか分からなくなって行きます。たまに娘が来たかと思えば、口を空いたまま意識もハッキリしない患者を前に『やはり昼間は車椅子で散歩に行ったりしたんですか?』とか呑気に言ってのけたり、何を根拠に言うのだか、病院にいるんだから安心だ、 徐々に元気になっている...だなんて一方的に話して、それじゃまた来るからとさっさと引き上げるのです。今夜が危ないからと呼ばれた家族も、しばらくベッドサイドに立っていたものの、こうしていても仕方がないからと帰ってしまったケースもあります。入院によって得るのは、『見ないでいられる』気楽さと厄介者払い。薄情な現実は切ないものだったのです。
母の介護は、殆どトイレ介護ばかりなのですが、一晩に二十数回という事もあります。決してオムツにしてくれないのは、戦前の女子教育の賜であるように思える節もあります。何せ記憶の維持が10秒というのですから、オムツの利用でどれだけ助かるか納得してくれても、10秒を過ぎればまた同じ繰り返しなのですからどうにもなりません。それでも制作は続けているのです。
京都祇園祭で放下鉾に乗る稚児人形は、十二世面庄の代表作といって然るべき頭(かしら)により、五世大木平蔵時代に制作された稚児等身大の人形で『三光丸(さんこうまる)』と呼ばれます。その圧倒的な出来映えの人形は、本来とうに美術品の文化財として保護されて然るべきものなのですが、両腕と背中を操る三人によって、腰の鞨鼓を叩く仕草を見せる他は、鉾の上に正面を凛と見据えているのですが、その姿といったら実物の稚児などまるで及ばない品格を備えて魅了するのです。
ちょっと必要があり、その三光丸が被る冠のようなもので、高さが七寸程度の物を作っていました。もちろん三光丸の冠を規準として作るのですが、目に出来る写真ではパーツごとの比率も分からないし、どんな組み立てになっているのかも分かりませんから、素材も含めてあくまでもオリジナルでの制作なのです。言うまでもなく、そもそも三光丸の冠の写しだなどとはおこがまし過ぎるのですから、それで構わないと言われて制作に掛かったのでした。
冠はざっと、土台・日輪に雲・花・鳳凰・房という成り立ちです。実物は鹿皮を漆加工して作られたようですが、こちらは厚紙です。日輪は木彫り。花は有職造花を作るように鏝当てして作り、雲や土台などは胡粉の置き上げが基本です。彩色は、どれも先ず胡粉を塗り重ねて固め、それに純銀泥を塗ってから、純金泥で完成させたのですが、金泥は1.2gも必要でした。厚紙に何度か礬水(どうさ)を引き、それを花弁なりに切り出して鏝を当てるのですが、礬水を引いているとはいえ、胡粉の水分でどうしても形が若干戻ってしまうのです。そのため少しでも早く胡粉を乾かす必要があるのですが、厚紙のことで中々乾燥してくれませんから、何度も鏝当てを繰り返さなければなりませんでした。
さて、三光丸が鉾の上で鞨鼓を叩くのに前のめりになる度、冠から下がった金糸の房が大きく揺らぐのも見所だったのです。ちょうど西陣の藤原さんという帯の織屋さんから、どれだけ金糸の房を仕立てようとも使い切れないほど沢山の金糸を頂いていたので、六箇所に下げる房はぜいたくにたっぷりと誂えることが出来たのです。金糸というのは思いがけないほど重いものでしたから、房を下げる棒を撓る(しなる)ように仕立てれば、理想的なほどに僅かな曲線が生まれたのでした。実はこの冠、二つ作ってと言われたのですが、何よりも鏝を当てた花弁の形をどうやったら維持出来るかとか、パーツの大きさの比率を計り直す必要とか、二つ目の制作には幾つかの探求がどうしても要るのです。それで、もう一つの制作はしばらく時を置いてからにしようと、しばらくは撮った写真を眺めて余韻に浸りながら、怠けることにします。