庭に残る古井戸の向こうに、物心付いた時には既にあったように思うほどの昔から、鉄線(クレマチス)が毎年同じように薄紫の花をびっしりと咲かせてくれるのです。ですから私にとっては、その色も雄蕊も葉の形も、これが鉄線という絶対的な物に定着してしまっているのです。
あのスッキリとした色や形が五月近い陽に照らされるのを目にすると、毎年のように今年こそは作ってみようと思いながら一度も作らなかったのは、木蓮、辛夷、ノウゼンカズラ等々と同様、これも主に鏝当ての戸惑いによったのです。こうした技法上の躊躇は数多くあったのですが、心配が杞憂だったのか手慣れた末のことなのか自分でも不可解ながら、いざ作ってみれば別段苦労もなく出来てしまうのです。
そもそも菱田春草の名作『黒き猫』の平薬化を目指して彫った黒猫が、まるで別物になったことからの路線変更で、ならばどんな花で有職造花の平薬らしいものに仕立てられるか色々と考え迷った挙げ句、何より季節柄であり、又、ずっと制作を願い続けてきた花でしたから、この際挑んでみようと決めたというわけです。もっとも、有職造花で鉄線が作られたことなど無かったのではないかと思います。
何しろ猫の大きさが掌に乗るくらいなのですから、鉄線花の直径などほんの二寸ちょっとしかないのです。しかしながら、本来の大きさというものを感じさせなければなりませんから、その辺りが難しいというものでしょうけれど、猫と組み合わせられての目の錯覚に助けられるのだろうとは思いますが、別段何を工夫するとかいうこともなく何となく出来てしまうのは、そもそも直径一尺の環に有職造花を構成する『平薬』という特殊性こそが生み出すマジックであるような気もするのです。
鉄線の花弁には、辛夷や泰山木にも使った極く細かい縮緬のような肌合いで厚めの反物を選んだのですが、この生地は、水で十分に濡らしてから染料を垂らすと、美しい暈かしが自然に生まれてくれるのです。染め上げた後、花弁の中央に絹サテンを細く切って貼り付け、裏に針金を施してから筋鏝を当てた6枚を一組にまとめて一花としたのですが、独特の花心には渋い色合いの金糸を束ね広げて使ってみました。大ざっぱな表現なのですが、成功しているように思います。植物の習性というのはそれぞれで、つくづく面白いのですが、鉄線は蔓でありながら蔓自体が巻き付くわけではなく、先端に葉を付ける長細い華奢な茎が、クルクルと近くの蔓やらに巻き付いて固定させているのです。再現していると自分が鉄線になったような心持ちがしてきて、それが妙に心地良い制作だったのです。