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■ 近頃のこと

2016/05/24

la manma morta-亡くなった母が-

5月11日に日付が変わった1時39分、看護師がモルヒネ皮下注射の交換をした途端に、母の息はふっと止まったのです。苦しみもせず、神戸から最終の飛行機で駆けつけた孫の到着を待っていたかのように、その15分後96歳と5ヶ月の生涯を閉じた瞬間でした。
一昨年の9月に大腸ガンによる腸閉塞で緊急入院したのですが、認知症で今のことが全く記憶できない状態は、いったい何年間だったでしょうか。それからちょうど1年後の再発から頻繁に入退院を繰り返してきたのですが、昨年11月の入院では12月1日の誕生日は迎えられないだろうと言われたものの、驚異的な生命力との医師の言葉通り誕生日を迎えられ、デイサービスにも復帰出来てから5ヶ月目のことでした。
昨秋からは認知症の症状が悪化していて、錯乱に陥り何を言っているのかわからないような事も増えてきながら、オムツをしながら決してオムツにしてくれなかった事は全く変わらず、そのために繰り返された深夜のトイレ介護は、最後の入院前には一晩38回にも至ったのです。杖に三つの鈴を付け、母が起き出す時に鳴る音で飛び起き、背中から母を支えながらトイレに連れて行き、オムツを下ろして用を足してもらうのです。入院中もその杖を母の枕元に置いたのは、治癒の望みを託す意味でもありましたが、主が臥したままの杖はただ冷たく光るばかり。それは頼りない明日を象徴するようにも思えました。

臥す母の枕元に杖黒くあり付けたる鈴の鳴ることもなし

介護する側の体力と気力の限界から、どうしても入れたくなかった施設への手続きを進めざるを得なくなった4月の終わり、3度目の腸閉塞に襲われたのです。大腸癌の進行からも既に処置のしようがなく、母の死は漏れだすばかりの点滴を外す決断をして3日もせずでした。
介護記録からすると、4月7日頃からではないかと思うのですが、真夜中の床の中で母が突然歌い始めたのです。歌うといっても、呻き声に節がついているようなものでしたが、何度も繰り返されるのを聞いていると『お水を飲みに参ります』と歌っているのです。何の歌かと尋ねても『そんな歌を歌ったのか』と言うだけですから、インターネットで調べてみると、昭和10年頃の童謡でした。

暗いみそらの流れ星 
どこへ何しに行くのでしょう 
林の果ての野の果ての 
誰も知らない湖に 
喉の渇いたお星様 
お水を飲みに参ります

昭和10年というと母が16歳ですから、女学校に通っていた頃の歌なのでしょうけれど、何故そんな歌を突然歌い出したのか、或いは女学生時代のある出来事を象徴するような歌で、それを何かのきっかけで突然思い出したのかもしれません。 それから真夜中であろうが明け方であろうが、家であろうが病室であろうがお構いなしに歌ったのです。母の混沌とした頭に明確な答など得ることは出来ませんでしたが、水すら飲めなかった入院生活が何度もありましたから『お水を飲みに参ります』という歌詞には、今でも胸に迫るものを消せません。

最後の入院後、モルヒネは皮下注射に切り替わりました。すると眠ってばかりにもなり、言葉もハッキリしなくなりましたが、点滴を外した夜20時15分頃、面会時間の終了で帰らなければならないと告げた時、ハッキリとした口調で『あんたも大変だ。』と言うのです。即座に『ちっとも大変じゃないよ。』と応えると『いや、大変だ。』と言ったのが最後の言葉になりました。
不思議なもので、良かったことから思い出します。風呂に入れるのは、母の拒絶があったら止めるしかなかったので、それが叶った事はどれだけ好運だったでしょう。手を繋いで湯船に浸からせるのですが、骨と皮ばかりになってしまった肩が出るので、片手で湯を掛けると『ああ、いい気持ちだ。熱くも温くもない、いいお湯だ。』という言葉に、全てが報われる思いすらしたのです。
もちろん介護はきれい事で済むはずもなく、その辛さは千差万別でしょうけれど、体験した者だけが知るのです。オムツにしてくれるよう土下座して頼んだこともあるし、罵倒してしまったことすらあります。亡くなったばかりの母の頭を抱きしめて一人慟哭した時も、処置が済むのを暗い廊下に蹲って待っていた時も、押し寄せるのは後悔ばかり。その遣り切れなさは、生涯海の波のように繰り返されるのだと思いながらも、ならば母を甦らす代償にあの介護生活が再開されると考えれば、躊躇が先に立つのも自分なのです。それが長年に亘った認知症介護の、紛れもない一現実なのです。

一老女の葬儀にもかかわらず、その祭壇には幸いな事に29基もの生花が寄せられました。小枝の中に花が点在するような自然のイメージでとの依頼通りに出来上がった生花と、私が行書で書いた名札による祭壇は、例を見ないものになりました。
これから私に出来ることは、取り敢えず私にしか出来ない、昔ながらの新盆棚を誂えることです。とりあえず、有職造花の技術を駆使した切子燈籠を四対作らなければなりません。私の切子燈籠制作はそれが打ち止めとなるでしょう。

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