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■ 近頃のこと

2017/01/15

龍の前立て

私の丸平コレクションは五世以降の雛が殆どで、五月人形はたった三点ばかりなのです。だからというべきか、コレクションが叶った五月物のうち『馬上の大将』と『武官(仮称:源三位頼政賜御剣)』は、丸平さんの歴史の中ですら指折りに優れた人形かと思われるのですが、何れも五世大木平蔵時代の制作です。
戦前のことですから、長男と長女が生まれた時の祝い事というのは比べものにならなかったでしょうし、女の子に破格な雛を誂えられた家ならば、長男誕生時にとりわけ豪勢な五月飾りを誂えるなどは当然の事だったでしょうから、丸平さんの歴史の中で制作された凄まじい水準の人形というのは、実は五月人形だったのではなかったかと考えているのです。
敗戦後のGHQ統制政策による影響が甚だしかったせいもあったのでしょうけれど、鎧兜と鍾馗、桃太郎程度が辛うじて昔日の影を留める程にまで、戦後の五月人形は見る影もなく衰退してしまいましたから、今でも丸平さんには、仕入れられたまま使われることが無くなってしまった、名人中の名人頭師だった十二世面庄の五月人形頭が数多く残されているのです。
神武天皇、武内宿彌、太閤秀吉など言うまでもなく、驚くほど大きな大久保彦左衛門や乃木大将の頭等々その種類たるや数知れず、一体何に使ったのだろうというような、赤茶の顔色も厳つく不気味な程の武士の頭も沢山あるのです。
『馬上の大将』は、木彫りの馬に至るまで飛び切りの名品ですが、京都のオークションに出た時には既に兜の前立てが失われていたようです。鎧や兜の金具のそこかしこに竹と虎が彫られていますので、前立ても虎ではないかとの推測から虎の前立てを作った事があったのですが、どうも大将の前立てとするには相応しさを見出せず、付けることはありませんでした。
五月人形としての兜に付けられる前立ての多くは龍なのですし、この大将の前立ても龍だった可能性は高いでしょうから、ヤフオクに丸平さんの兜が登場する度、その前立てを見て来たのですが、写実的に作られていたり、とりわけ凝った作りの物とかが現れることもなく、参考にはならなかったのです。
そうして十数年を経た昨秋、東京国立博物館の展覧会に出掛けた時、無料で常設展も見られるというのでグルリと回ったら、珍しく龍の前立ての付いた兜が展示されていたのです。その龍が五月人形めいた様相でしたので、写真撮影が自由だったのを幸いにスマホに収めておいたのです。つい先日、手持ち無沙汰にちょっと大将用に写しを作ってみようかと、スマホの画像から大まかな図面を起こし、それによって先ず胴体の木彫りを始めたのですが、これが面白かった。大将の兜の鉢からすると、龍の全長は四寸程度。腕も足も三本の爪の針金を延長して関節にしたり、頭を別に作って胴体にはめ込み、130本を超える大量の髭は針金を植えるなど、結構凝って写したのです。厚紙で火を作って手足の根本に装着させてから胡粉を塗り重ね、鱗も置き上げてから純金泥で彩色したのですが、完成させてみれば大将に向くとは思えないのでした。だいたいこんなに大きくはないでしょうし、何よりもおよそ丸平好みには見えません。胡粉塗りした途中段階の画像を五月人形研究家の友人に送った時、江戸後期に大名家で流行った復古調の大鎧に付いている龍頭を思わせると書いてこられたので、自分で作っていながら出来上がりを期待していたのですが、完成した画像を見たその友人も『小さくなった分、細工が凝縮して、原作にもある俗っぽさがかえって増幅してしまったようだ』と、同じように大将には合わないだろうとの見解なのでした。
それなりに凝った前立ての龍なのですし、こんな龍が他で見られるわけでも無いのですから、まあ折角なので一度だけ大将の兜と合わせてみてから、誰かに貰って頂こうと、早くも諦めたのでした。

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