『御所に伝わった粉本からの復元平薬』から、五月菖蒲の平薬制作の依頼がありました。
そもそも私が一番最初に手掛けた平薬はこの図案からの復元で、11月の『枇杷』だったのです。図案は、御所に伝わっていた資料を写したものと聞いていましたが、原本を正確に写したものとは信じ難い大まかさなのです。それでも明らかに魅力があったのは、少なくとも原図の趣は伝えられていたのでしょう。
それが、本当に御所に伝わった図案だと知るのは、後年の古本カタログに出た御所の粉本だという巻物からで、一部分だけ掲載された『三月 藤』の図案が同じものだったからなのです。巻物は端正な白描画で、私の持つ図案とは比べ物にならない絵の正確さ、質の高さではあっても、30数万という値段に買い渋り、それから10数年を経た今でも、私こそが持つべき資料だったと悔やんでいるのです。
図案は、必ずしも藤原定家が12ヶ月の花を詠んだ歌の通りではなく、1月の歌は『柳』でも、図案は『松竹梅』。5月の歌は『橘』でも、図案は『菖蒲』なのですが、1月の図案には、柳では花負けするので松竹梅にしたとの添え書きがあっても、五月の変更については全く記述がありません。しかしそれこそが、この図案は邪気祓い儀式の参考資料などではなく、実は有職造花の商品図案である証明ではないかと思わされるのです。
実はずっと、図案の『再現』を『復元』とするのに釈然としないで来たのです。図案には、籐の輪の直径が一尺三寸と指定されていますから、比例によって花の大きさを出すと、桜や梅の花の直径が3cm以上にもなってしまうのです。図案はあくまでも図案で、絵空事になるのは仕方がないのですが、そもそも、有職造花や人形の復元というのは、寸分違わず写さなければならない能面の写しとは根本的に違うのでしょう。
例えば静嘉堂文庫が所蔵する御所人形の名品『宝船曳き』の制作でも、画家による図案を実際に木彫り彩色する山田八十一・八郎兄弟が、その絵空事を修正して名作に仕立てたのですし、例え図の通りでなくなったとしても、復元には不都合を正すという修正に正当性があるだろうということなのです。 勿論、復元に当たる者の理解度や解釈、果てには資質そのものが信頼に足り得て初めて許される事ですし、あくまでも原作に忠実でなければならないという条件など、言うまでもありません。
長いこと有職造花を作り続けて来ての最近、復元についてこんな考えに辿り着いていたものですから、この菖蒲の平薬復元には、今までと違った姿勢で臨んだのです。初めてのお子さんの初節句に誂えたいと仰る依頼でしたから、折角なので下花に蓬(ヨモキ)を包んで下げることにしました。勿論図案には無いのですが、邪気祓いは菖蒲と蓬が合体して伝統なのです。紙包みの紅白も、平薬の威厳とグレードを何段も高めますから、何よりも初節句に相応しいと考えたのでした。