もう何年前になるでしょうか、ほんの気紛れだったのですが、長い間掛けっぱなしにされていた昔ながらの座敷箒を使って畳の部屋を掃いた時、一瞬にして座敷箒の虜になってしまったのです。以来、朝の掃き掃除は毎朝欠かすこと無く続いていて、そうしなくては一日が始まらないでいるのです。
畳の井草と同じような素材で出来た物で掃くことほど、互いの損傷を最小限に防げることはないでしょうし、平刷毛のような構造ですから、恰もペンキを塗るような効率でゴミを掃き出すのは、絵を描く私には隙間無く彩色するようなものですから、とりわけ相応しかったわけなのです。箒の先端を90度回転させれば、襖と箪笥の間とかの狭い箇所にも容易に入り込んで埃を掻き集められるという機能性など、日本家屋に極めて相応しい発達を遂げて来たこの伝統的な道具には、工夫と始末と順応性等が集結される優れた庶民文化の化身として、心底感嘆してしまったのでした。
玄関から裏口まで九つの部屋と廊下を順繰りに掃いて行くのですが、田舎のことで掃き集めたゴミはそのまま庭に掃きだしてしまえるのも、ズボラな私にはピッタリだったのでしょう。どんなに寒い朝であろうが、まるで億劫にならないのです。
ある時テレビで、家事評論家のような年輩の女性が、掃き掃除で集められた塵というのは、いわば前日の生活記録や記憶のようなものだから、それを目にすると愛おしい気持ちにすらなるものだと話して居られたのです。つくづくその通りだと思いました。居間や台所を掃いた時にとりわけ感じられるのですが、掃き寄せられた塵に、生活の温もりや命の喜びのようなものを感じてしまうのです。
そして又何よりも、掃き終えた部屋々々を眺め渡した時に感じる清々しさというものは、掃除機では決して味わえない種類のものだということなのです。座敷箒によって掃き出したのは、きっとゴミばかりではなく、わだかまりとか不安とかまで、部屋に澱んでいたあらゆるものだったのではないかと思えてしまうのです。掃除をしないと、何だか気持ちが落ち着かないのは、そんな感覚から生じているのかもしれません。
座敷箒といえば、かつては暮れになると年中行事のように売りに来ていたものでした。担げるだけの座敷箒を肩にして売り歩いていたものでしたが、今ではそんな光景などまるで見られなくなってしまいました。
ですから大きなホームセンターで売られているものを買うしかないのですが、恐らく中国とか東南アジアとかで安く安く作らせた物を売っているのでしょうけれど、井草の量が少ないので厚さも薄っぺら。恰も羽根の抜け替わる時の鶏の如く、始めからスカスカなのです。きっと下拵えに手間を掛けるなどあり得ないほどの卸値なのでしょうから、掃き始めて直ぐに細い井草は折れて落ちる、太い井草は根元から抜け落ちる、縛った紐は解けてしまうと、毎朝の使用では直ぐにダメになってしまうのです。
日本製の座敷箒は安くても8,000円とかするのですから、2,800円程度で買えるホームセンターのはそれでも仕方が無いのだろうと諦めていたものの、あまりにも早くダメになるので、案外8,000円であろうが実は経済的でもあるのではないかと思い始めたのです。かといって昔ながらの座敷箒を売っている店は遠方で、電車の中を持ってくるのも恥ずかしいものですから、そういえばとネット検索してみると、日光箒というのが4,000円もしないで売られているではありませんか。やくざ箒の倍にもならないのです。直ぐに取り寄せてみました。届いた日光箒はずっしりとして、掃いてみるまでもなく素材を沢山束ねているだろうことなど直ぐに分かるものでした。
案の定、使い心地など比べものにもなりません。よくこんな安価で売ってくれるものだと、そうでなかったら買う人も居ないのだろうとか、これでは箒職人など居なくなるのも当たり前だと情けなくなったり、日光箒を手にしながら感慨に浸ったのでした。
さて、そもそも伝統的な道具が消えるというのは、間違いなく貴重な生活文化遺産の消滅を意味するのです。もちろん座敷箒は日光箒ばかりではないのですけれど、相撲だとか茶道だとかの限られた世界に、庶民文化から懸け離れた扱いと勿体ぶった姿で高価に残るのでは無く、功名心や暴利など考えもしない慎ましさで庶民生活に在るなど、最早時間の問題ではないかと思います。そんな姿勢を現代社会はいじめのように痛めつけたり、食い物にしたりして平気なのですから。
クセが付かないよう、また片側だけ磨り減ってしまったりしないように、手許で頻繁にクルクル回しながら今朝も掃除していたのです。