すっかり制作意欲が萎えてしまった十二支の面(おもて)制作でしたが、厚さの違う2枚の板を6.5cm四方に切って貼り合わせ、面を彫るばかりにしたのがもう一つ残っていたので、せっかく用意したのだしと、それだけは彫ってしまうことにしたのです。
やはり午(うま)にしました。馬の造形美といったら、あらゆる動物の中でも屈指のものに違いありません。そもそもあの姿形だからペガサスにイメージされたのでしょうし、河馬(カバ)がペガサスになるなんてことはないのです。いつかは馬を彫ってみたいという思いがありましたから、良い機会でもありました。 又、出来上がったならば、午から亥までが揃うことになるのも選択の理由なのです。
しかし、あくまでも本狂い人形の面なのですから、擬人化で仕上げて相応しいのですが、写実的に彫ってみたい欲求には勝てませんでした。長い顔を長く作るのですから、面の左右はすっかり削り取ってしまいます。当然、顔を覆うだけの幅などなくなってしまいましたから、頭(かしら)に装着したら、きっと目と目との間にちょこんと乗るような感じになってしまうでしょう。栗毛の馬にしたため、ただでさえ本狂い人形に使うには華やかさが欠けてしまっているのですが、口元の形や質感などの出来上がりが気に入っていて、彫り直す気になれなかったのです。ですから、 面として顔を覆うのではなく、額辺りに装着して貰うとか、これはこれで許して貰うしかありません。
馬の彩色ですが、鼻筋の白い部分以外は胡粉を塗った上に先ず焦げ茶色の岩絵の具を塗り、黒で陰を置いたりしながら、赤茶、小豆色、金茶、黒緑青などを塗り重ねてあるのです。日本画の岩絵の具というのは、塗り重ねるほど味わいが出て来たりするものですから、上塗りにすっかり塗り込められてしまうような色でも、無駄になるということがないように思います。それが下に塗られていなかったら、こんな色合いにはならなかったろうというような『結果』は、岩絵の具の粒子を計算に入れたりする予測上の彩色を叶えてこそ表れるものでしょうけれど、それを上回るものがあるようにいつも感じてしまうのです。きっと、そこが岩絵の具の不思議さと醍醐味であり、日本画の楽しさ、奥深さというものでもあるのでしょう。
さて鬣(たてがみ)ですが、彫刻ではなく絹スガ糸を使いました。頭の上だけのことですから無ければ無いでも構わなかったのですが、手許にちょうど良い色のがありましたので、せっかくなので使ってみたのです。
相変わらず私は絵を描くのが苦手なままで、それは間違いなく才能の欠如ゆえなのですが、こうした人形小道具の制作によってだと、少なくとも彩色の楽しさといったものを時折味わうことが出来るのです。仕上がりを眺めるのは、結構至福の時だったりするのですが、それもたいがいは一晩程度束のこと。そんな水準のものであっても、喜んで下さる方々がいればまた性懲りも無く筆を取る気になってしまうのですから、人間というのは分からないようで分かりやすいものなのかもしれません。