水仙というと、裏山を越えて降りた斜面の道端に咲いた、明るい黄色の八重の花が真っ先に浮かぶのです。小学生の頃の話なのですが、その裏山は季節を問わず格好の遊び場でした。
もちろんどの家もが山を所有していたわけではないのですが、風呂や煮炊きに焚き木を使っていた当時ですから、山を持つどの家も毎年冬になると山に入って、伐採した下枝や枯木、松葉などを大量に束ね、一年分の焚き木を木小屋(焚き木専用の納屋)いっぱいに運ぶのが大仕事だったのです。それを山掃除といいました。家から離れた山だと、昼食に戻る時間を惜しんでお櫃持参だったこともあり、学校が半日の時など山に寄り道して、そこで昼ご飯を食べたりもしたのです。
裏山ももちろん山掃除されていましたから、山道は年中人が通れるようになっていて、ワラビ、野イチゴ、桑の実、カブトムシ、アケビ、栗、茸と、どの季節にも子供に好都合な遊び場だったのです。春には背の低い山ツツジがそこかしこに様々な色に咲いて、その美しさといったら、山ウドの青々しい葉と共に、今でも目に焼き付いて消えません。
それにしても、あの頃は花粉症など聞いたこともありませんでした。篠竹を銃身にして杉の実を弾にした杉玉鉄砲のために、杉の実を扱き落としてはポケットに入れていましたし、木登りして遊んで降りると、服が花粉で真っ黄色だったのです。
やがて煮炊きにも風呂にも焚き木の必要が無くなり、山掃除をしなくなってしばらくすると、松食い虫が蔓延して松は枯れてしまう、花粉症が流行りだすと、田舎に育った者からすると、どうしても自然との共生を止めた代償のように思えて仕方がないものがあるのです。
山向こうへは、村はずれまでグルリと回らなければならない下道を行くより、裏山をよじ登って突っ切ってしまった方が早いし面白かったものの、裏山は前の家の所有だったので、境に垣根が結われていたのです。誰もに嫌われていた隣人の目を盗んで垣根を越えなければならないのですが、見つかって嫌味を浴びせられることも覚悟で、素早く竹垣の隙間をすり抜けては急斜面を駆け登ったのです。
山向こうに降りる斜面は陽当たりが良く、山間で風が避けられたからでしょうけれど、道端や畑の周りに群生した水仙が随分早くから咲いたのです。人里を離れて誰に見られるわけでもいのに、鮮やかなオレンジ色の花弁が混じった黄色い大きな八重の花が、白緑にも見える葉の色に明るく映えて、いち早い春の到来を告げていたのでした。
久しぶりに『行の薬玉』を作った先日、そのパーツとして新しく型紙を起こして作った水仙の出来が良く、手法を身に付けるためもあって、改めてその型紙によって水仙を作りました。
それで冬の平薬を仕立てようとあれこれするうち、枯れ枝を一本だけ真横に渡し、その手前に水仙の茎を平薬の環に沿わせて構成すると、あたかも人目につかない野の一隅に咲いているように出来上がりました。葉の色を渋い萌黄にしたことから、絹自体の黄ばみが水仙ならではの仄かな花色に見えたのです。
その平薬を居間に掛けて毎日眺めているのですが、一重の水仙にも祖母との墓参りとか様々な時代の様々なシーンが重なるのです。水仙はきっと、私には生涯そうした存在であり続けるのでしょう。