清流の水面を覆うように繁って白い花を咲かせる梅花藻のことは、見学に行ってこられた方からの感嘆を載せた便りで知っていたのですが、私自身は一度も見たことがないのです。
梅花藻を平薬に出来ないかとの提案もされたことがあったのですが、平薬に水面や水中を表現するのはとても難しく思いましたし、実物を見たことがないのが致命的で、試作することもないままま、今に至っていたのです。
最近お便りを頂いた方の感性や造形のセンスに刺激を受け、有職造花で見てみたい新しい花があれば教えて欲しいと質問させて頂くと、カタクリ、イカリソウ、そして梅花藻とのお答えが返信されてきたのです。カタクリやイカリソウは、自然界の造形の神秘そのものながら、何分可憐に小さ過ぎて平薬には不向きと言わざるを得なかったものの、梅花藻ならば構成次第では何とかなるのではないかと思いました。
それが制作の着手まで後押しされたのは、梅花藻からミレーによるオフェーリアの溺死を切なく美しく描いた絵と、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が浮かぶのだと書かれてあったからなのです。
私にとって、『ハムレット』はシェイクスピアの戯曲ではなく、トーマ作曲のフランスオペラ『ハムレット』で、その終幕近くに置かれたオフェーリアの狂乱の場が全てなのです。花を撒き散らしながら回想し、嘆きの果てに清流に流されるまでのアリアだけが、名曲として歌い次がれているのです。
私が初めてそれを聴いたのは、奇しくも21歳の今頃でした。マリア・カラスによる『狂乱の場集』というレコードからで、ドニゼッテイの歌劇『アンナ・ボレーナ』、ベッリーニの歌劇『海賊』から三つの狂乱の場が歌われていたのです。
対訳を見ながら耳にした時、世の中にこれほどまでに切なく美しい旋律があったこと。歌詞(台本)にある心情をこれほどまでに旋律に置き換えられたこと。そして、オフェーリアのアリアによってこそ、恐らく作曲家の意図以上に、言葉と旋律をこれほどまでに結びつけ得た歌手が居たことを知った瞬間でした。
頭の中で梅花藻の製作法をシミュレーションしながら、どこかにオフェーリアの衣服を象徴させた白絹を結んで靡かせ、梅花藻の平薬を『オフェーリア』と名付けようと目論んだのです。
それはしかし、叶いませんでした。そもそも、構成の段階で諦めざるを得なかったのです。梅花藻を真上から眺めた光景として平薬に仕立てるのは面白味がなく、清流の水面を覆う程に繁る梅花藻なのですから、澄み切った水中を表さないのは片手落ちというものなのです。あたかも木の枝を繁らせるように、籐の輪の上方に梅花藻を植えて右側に流し、下の空間を水中に見立てて、出来るだけ厚さを出さずに積み重ねてみたのです。花は22、葉は210程になりましたが、川底を感じさせるよう、白木で杭を2本立てました。
オフェーリアに成り損ねた、きっと冒険の平薬という類なのでしょうけれど、完成品は『夏の平薬』でご覧頂けたらと思います。