私がコレクションする神武天皇の人形は、戦後間もなく六世大木平蔵が、十二世面庄の頭を使って制作したものです。
背丈が二尺以上という大きな五月人形なのですが、これが丸平さんで作られた最後の神武天皇でしたから、丸平五月人形の記録としても貴重なコレクションなのです。
小学生の頃、私が神武天皇の人形を目に出来たのは、田舎町の玩具屋で五月人形が展示される時だけのことでした。段飾りされた高価な鎧飾り最下段向かって左端に鍾馗、右端に神武天皇が置かれていたのです。せいぜい七、八寸程の背丈の人形でしたが、決まり事のように必ず対にされて据えられていました。
そもそも神武天皇など知りもしない子供の目からすると、鍾馗と対でなかったら成り立たないような不思議な存在だったとはいうものの、そのくせ埴輪のような服装といい、額の飾り金具や勾玉の首飾りといい、どうしたわけか私は、妙に心惹かれてならなかったのでした。
あくまでも、鎧段飾りの賑やかしとか、値段を上げる手段としての添え物で、大量に生産された安物だったのでしょうけれど、そのうち五月人形などすっかり廃れてしまい、鎧が段飾りされることすらなくなってしまうと、神武天皇ばかりはすっかり消え失せてしまったのです。私はそれを密かに惜しんでいました。
様々な例外が成り立ってしまう丸平さんですから、神武天皇もまた特別中の特別な五月人形として求められたようで、それ故こうした特大の、小道具まで凝りに凝った立像に仕立てられたのでしょう。
この神武天皇の顔立ちといったら、関東だと日本神話の絵本そのものに、切れ長の細い目にうりざね顔というのが定番だったのと随分違って、どこかおおらかな子供顔なのです。
それはもちろん十二世面庄の頭ならではのことですから、高級品には必ず十二世面庄の頭を使った、丸平さんの神武天皇だからなのかもしれませんが、丸平さんの鍾馗というのも子供顔で仕立てられていたのです。
さて、神武天皇といえば金鳶(きんし)です。
もちろんこの人形も、手にした弓の先端に木彫り金彩の鳶を止まらせてはいるのですが、その鳶があまりに手慣れて作られ過ぎた小道具に見えてしまったのです。
何しろ、夥しい本数の背中の矢に、わざわざ櫟(いちい)の小枝を使うという凝りようなのですから、それに比べたらということなのですけれど。
そんなこんな、いつか作り直してみようかと、防虫剤交換の時のついでに金鳶を外しておいてあったので、今回思い立つなり直ぐに制作に掛かりました。
木彫りで手に負えなかったのは、猛禽類の嘴(くちばし)でした。何せ嘴の先端の内側に丸まったところなど1㎜がせいぜいですから、肝心なところが彫り出せません。仕方なく和紙を貼り付けてから、鋏で切り出したのです。
木彫りを終えるなり胡粉塗りし、墨塗りしてから純金泥彩色したものの、どうも物足りません。とはいえ、大人大人して作られていない十二世面庄頭のことですし、あまりにも写実的な鳶では相応しくないと思いましたから、頭部のみに薄墨と茶色で、少しだけ羽の流れを描き入れてみたのです。
こういうのは、或いは反則なのかもしれません。しかし、そもそも自分のコレクションのための小道具作りなのですから、六世にも大目に見て貰おうと決め込みながら、とりわけ嘴をお気に入りに眺めているものの、実際に弓の先端に取り付けて持たせた時にどう見えるか、あくまでも評価はその時のことです。
さて、例えば小さい頃、どれだけ楽しみに美味しく食べた貰い物の贅沢なクッキーやらを、それから何十年を経て再び口に出来た瞬間の意外さのように、あの頃憧れを持って見つめた神武天皇の人形を今目にしたなら、やはりクッキーと同じなのだろうかと思うのです。
間違いなく、こんな水準だったのかとは思うのでしょう。けれど、どんなに安物作りであったろうと当時の職人技というものには、良いも悪いも、きっとそれなりの専門性が見られるだろうと思うのです。
昔を懐かしむという類いではなく、それを目の当たりにしてみたいという思いが近頃とみに募るものの、やはり知らぬが花というものなのかもしれません。