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■ 近頃のこと

2019/04/20

私の平薬

有職造花というのは、本来芸術上の創作とは異なったでしょう。
雛人形の桜橘が主で、その他に節供行事を彩る薬玉や茱萸嚢(ぐみぶくろ)。更には、奈良蓬萊や嶋台といった婚礼用具類。そして四季の平薬など、それを商う業者からの注文によって作り納めるのを生業とした、職人仕事の一つだからです。
とにかく量をこなさずに生活は成り立ちませんから、絶えず夥しい数の下拵えに追われる繰り返しで、自発的な創作物に向かう時間的、意欲的、経済的余裕など、なかなか持ち得なかったでしょう。
かつて京都で、端午の節句の飾り馬を作られていた、横尾さんという職人の仕事を記録した映像が残されていますが、決まった行程で、一度にこなせるだけの数の馬を一家で完成させては、また一から同じ事を黙々と、半世紀以上も繰り返されて来られた姿には、感動すら覚えたものです。
有職造花職人も同様で、戦前にはたかだか人形が持つ桜の小枝といった小道具でさえ、1㎝にも満たない桜の花びらを、恐らく数千枚単位で型抜きして鏝(こて)を当て、それを小さな萼に1枚ずつ貼り付けて作って居られたのです。手間や根気が割りに合うとか合わないとか、そんなことを問題にして出来ることではありません。
そんな職人仕事でありながら、とりわけ梅と平菊など、究極の様式美にまで高められていたのが、昭和初期雲上流の有職造花だったろうことは、残されたモノクロ写真からですら、歴然たるものがあります。
勿論、大きな個人差の上で、京都に生まれ育った者でなければ得られない美観や感性というものが、確かにあったのです。それらは極めて端正な形体に気品を宿し、琳派の絵画にすら匹敵する、そして有職造花でしか成し得ない様式美を完成させていました。それこそ、商品として流通した造花が、図らずも単なる職人仕事などではなく、工芸美術の高い水準に達していたという証明に他ならないのです。芸術の美は、作家だけに宿るわけでは更々ありません。
私は京都生まれではなく、又、有職造花を生業として来たのでもない故か、京都有職造花定番の伝統的なものを写しても、どれ程その美観や感性を理想と目指そうが、本質的に異なるのです。
長い間私は、そこに後ろめたい葛藤ばかりを持って、自分の有職造花を無条件には肯定出来ないで来ました。私の造花は、有職造花の素材と技術、そのスタイルを厳守しながらも、西洋美術の影響を消せない、創作造花というべきものなのでしょう。
以前、京都のある老舗の主人から、あなたは職人にはなれないと言われたことがあるのです。その言葉に、当時は落胆したものでしたが、なるほど私は、造花職を生業にして量産も受け入れ、それが足枷になって、作りたい時に作りたい物を作れなくなるなどおよそ望みませんから、そんな私が職人であれる筈がありません。
東西を問わず、かつて多くの画家は、著名な画家の工房の一員となるか、財閥や宮廷のパトロンを得るかしなければ制作など出来ませんでした。そのパトロンに自らがなることで、生活のための制作ではなく、作らずにいられない物を、納期に追われず、採算を考えずに出来たのが、私の有職造花なのです。それ故、幾つもの復元をはじめとした私の有職造花は、私だから作れたもの、私にしか作れないものだと、そろそろ言って良いように思い始めているのです。
そんなこんな、近頃はいよいよ、仕方がないものは仕方がないのだし、自分が納得出来るものを作れるようになれば良いだけのこと。それを望まれる方々に届けられればそれで良いという気持ちだけに定まって来ているのです。
さて、私にしか出来ない有職造花。その最たるものが平薬でしょう。
私は絵を描くのが苦手で、モデル無しには猫と犬を描き分けることすら出来ません。何よりも色彩感覚に鈍く、どの色の隣にどの色を置くというのがとりわけ閃きません。実物の色に囚われてしまうのです。
ところが、染め上げた絹を組み合わせる有職造花だと、例えば合歓(ねむ)の花色を際立たせるために、葉の色を水色に近い薄緑にしてしまうなどという発想が、いとも簡単に湧き上がるのです。また、有職造花は立体ですから、絵画よりも彫刻を得意とし、琳派などの華やかな様式美に憧憬してきた私に、有職造花は全てに打ってつけだったのです。
最近、ホームページに連なった自作の平薬を眺めていて、私は動物や鳥、昆虫までを素材に、自由な発想で色彩を操りながら、直径30㎝の輪の中に、移ろう季節に触発された光景や物語を、絵のように描き続けているのだと気付きました。私の平薬は、私が描いた絵だったのです。
『凍日』という平薬で、枯れた蓮の葉を作った時、造花職人の方から『ああしたものを作ろうとする気持ちが、およそ理解できない。』と言われたのです。要するにその方の作るものは、売れなければ意味がない物で、私は描かずにいられなかったものを描いただけという違いなのでしょう。
絵を描くことを楽しむ。それは、ひたすら機関車ばかりを小さな黒板に白墨で描き続け、それによって遠近法を漠然と知ったりした、3歳から7歳以来のことです。長い回遊の末、生まれた川に戻った鮭のようなものなのです。
人生の不思議さ、成るようになるものという実感を思いがけず噛み締めながら、やっと京都という呪縛から解放されたように感じられもして、何だか清々しい気持ちでいるのです。

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