インディアンの民話に『虹の橋』というのかあるのだそうです。
『大きく橋を渡した虹の手前に、沢山の動物が、痛みも、ひもじさも、病も、争いも、暑さ寒さも、生前のあらゆる苦しさから解放されて、みんな仲良く自由に楽しく暮らしていました。
勿論、かつて人間に飼われていて亡くなった動物達も一緒です。
そんなある日、仲間たちと遊んでいる最中だった一匹が、ハッとしていきなり止まると、空の下に目を凝らしました。
その目の先に、1人の人間が空に向かってゆっくりゆっくり登って来るのが見えました。
その途端に走り出して、その人がやってくる虹の橋のたもとに、全速力で向かったのです。
その人が到着するやいなや、足下に絡み付き、そして両手を広げたの腕の中に飛び込んでいきました。
その人は、今しがた息を引き取った、かつての飼い主だったのです。
そして仲良く一緒に、虹の橋を渡って行きました。』
この民話には、動物の健気さ、誠実さというもの。又、インディアンが飼い物をどれ程愛しんでいたかが、溢れんばかり語られているように思います。
日本にも、飼い主に愛された猫は、飼い主が死ぬときに提灯を下げて迎えに来るという言い伝えがあるそうです。何故提灯なのかは分かりませんが、二本足で立って来るのか、口に咥えていそいそと迎えに来るのか、何れにしてもユーモラスで、猫に相応しく思ってしまうのです。
私は数多くの捨て猫と知り合い、そして別れました。いつしか、ああ、この子を見るのは今日が最後になるなと感じるようにもなっていました。
姿を消す前日に、初めて鳴き声を聞かせてくれた猫もいました。夜道を歩く私をどこで見掛けたのか、いつの間にやら距離を保った隣を歩いていて、声を掛けてきた猫もいました。歩く足元を八の字にまとわりついてくれた猫もいました。
私が死んだ時、どれだけの猫や犬が虹の橋のたもとに駆けつけてくれるだろうかと思うことがあります。しかし、そんなことをして貰えるほどのことなどしてはいないのです。
野良となって生き抜くには、どれだけ空腹に耐え、寒さや雨風に耐え、花火の音に怯え、喧嘩にも、いじめにも、散々ひどい目にも遭ったことだろうと思うと、せめて何の苦もない虹の橋の楽園に辿り着いてくれていればと願わずにいられないのです。
私が虹の橋に登り着いても、目もくれず遊んでいてくれて良いのです。走り寄って、恨みの一つとして、引っ掻いてくれても、噛みついてくれても良いのです。虹の橋のたもとにあるという、何の苦もない場所に辿り着いてくれてさえいたら、それだけで良いのです。
4月22日早朝、リンが腕の中で逝きました。
家の中は、私だけになりました。