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■ 近頃のこと

2019/06/02

枯枝も山の賑わい

およそ今の季節と真反対な話題です。
もう29年も通う奥会津の秘湯である木賊(とくさ)温泉に行く途中、車窓に見える山々が徐々に高くなって行くのですが、私は紅葉が終わってほとんど枯れ枝ばかりになった景色がとりわけ好きなのです。
独特の薄紫に煙って見える枯れ枝の山といったら、いかにもこれから数ヶ月の眠りにつくといった様相で、それが柔らかな初冬の陽に照らされると、山全体がうつらうつらし始めているようにすら見えて、私は妙に穏やかな気持ちになれるのです。
因みに、よく『枯れ木も山の賑わい』と言いますが、あれは『枯れ木』ではなく『枯れ枝(かれし)』なのだとか。なるほど、山の賑わいというのなら、木ではなく繁った枝に他ならないでしょう。同じく、『雲を掴む』ような話とかいうのも、『空(くう)を掴む』が本来なのだそうで、そもそも雲など掴める位置になどない日常を考えれば、なるほどその通りだと納得は容易いのです。
昨年の夏、丸平さんに残されていた月次(つきなみ)図屏風の写真を復元しようと、何とか描き上げてはみたものの、やはり写生を積み重ねてきた腕ではありませんから、自然の描写に根本的な不足ばかりが露呈されて、結局行き詰まってしまったのです。
とは申せ折角描いたのですから、腕前の限界を見据えずの高望みで早まったりしないよう、先ずは放置することにしていたのです。それを数日前に改めて広げて見れば、やはり下描きの範疇を出ないに等しい実力を見るばかりだったものの、しかしこれはこれで十数年願い続けた思い入れの産物に違いない、たった一つの復元なのです。そして、何となく今ならもう少し手を加えられそうだとも思えたものですから、加筆し過ぎて最初の思いが消えないよう注意しながら、手直しを始めたのでした。
とりわけ心残りでいたのが、滝に紅葉という十月の図なのです。それを描いてから季節が変わって秋になり、冬になり、枯れ枝が芽吹く季節となり、その間何度も木賊温泉に出掛け、途中の山々の枯れ枝を確かめ記憶するつもりで見続けたからでしょうか、薄塗りした紅葉の山に、葉の落ちた枯れ枝を描き入れられるように思えました。モデルが目の前にないと湯呑み茶碗一つ描けない私が、頭の中に漠然としてあるだけのモデルを面相筆の先端に移して、ひょいひょいと描き重ねてみたら、何だかそれらしく見えてきました。
上村松園がとても厳しい表情をされながら、面相筆で写生をしている写真が残されています。かつて絵絹に描いていた日本画家というのは、ひたすら面相筆での写生を日常に怠らず重ねていたのでしょう。川合玉堂の風景画を見れば、雑木の枝振りであろうが、絡み付いた山藤の蔓やら、木々の種類の描き分けすら、何も見ずにさらさらと当たり前のように容易く描けたのだろうことを伺い知ることが出来るのです。
それやこれや思いながら、少しばかり紅葉の色や滝の水を補うなど、他の月の絵でも気になっていた箇所に少しだけ手を入れ、早々に筆を置きました。
完成度はともかく、どれもそれなりに雰囲気は出たかなぁとか眺めていたのですが、また閉じて箱に仕舞い込んだのです。

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