『枕草子』で清少納言が『春は曙』と書いている如く、誰にもそれぞれの季節に心待ちする『頃』というものがあるでしょう。
梅雨は、コレクション管理からも、その湿度がひたすら忌々しい頃に違いないのですが、同じ梅雨とは言うものの、梅雨入りの頃だと、まるで話は違うのです。
椎の若葉をはじめ山々のそこかしこ、未だ新芽の黄緑が広がり、そこに梅雨入りの小雨が降る頃といったら、木々の緑と息吹をこの上ない瑞々しさで感じられる、山々が一年で最も美しく潤う頃に思います。
寒いほどの気温だったりのせいか、どこかスッキリした印象で小雨に煙る野山ですが、そんな頃は半月もありません。緑が一様に落ち着くと同時に上がり始める気温と鬱陶しい湿気に、梅雨明けまで我慢を強いられる頃に変わるのです。だからこそ、私にとって梅雨入りしたばかりの頃というのは、嫌いな雨の日すら待ちわびる程に格別な頃という訳なのです。
4時前には空が白み始める7月の早朝、完全に夜が明けてしまう迄のほんの20分ほど、潮が寄せるように湧き立つ蜩(ひぐらし)の蝉時雨の頃。
光にも風にも冷えた筋が混じり出し、冷たいコバルト色が表れ始めた空を背にして、桃色芙蓉が風に揺れる晩夏の頃。
あれほど庭に溢れていた様々な虫の音が、ふと気付けばいつの間にか、僅かにコオロギのみを残すだけに消えてしまっている十月始めの頃。
今朝は随分冷えるようだと思いながら布団を離れ、綿入れの襟首を合わせながらカーテンを開けると、一面の初霜が目に飛び込む頃等々、私にとっての特別な頃は、四季を通じてありますが、それから生み出された平薬は幾つもあるのです。
先日、僅かな小雨に傘も差さず庭に出ると、リンの墓の近くに紫陽花がこんもりと幾つもの花を付けていました。これから色付くのか、うっすらと象牙色に咲いたほんの数輪が、薄紫に縁取られているのです。それが目に入るなり、これこそ今の頃でしか見られない花だと思いました。そして、作るのは今だとも思いました。
十数年前に初めて紫陽花を作った時、背後に数本の絹糸で雨の筋を加えてみたのでしたが、それが平薬に花以外の素材を加えて演出を施した最初だったのです。
今回の花(本当は萼なのですが)は、250程。ひたすら自然な絹の黄ばみに近い、淡い淡い黄緑色に染めた2種類の生地に裏打ちを施し、1.5×1.5㎝の四角に切り分けてから4枚の花弁に刻みました。葉は3種類に染めて形に切り出し、裏に針金を施してから和紙を貼ったのですが、本来あるギザギザは、柔らかな印象に仕上げたい思いで、敢えて省いたのです。
構成はとても厄介でしたが、何時もながら画像に写るように、平薬の輪から花や葉がはみ出すことは殆どありません。
花はもう少し小振りでも良かったでしょうけれど、梅雨入りならではの情緒のようなものは醸し出せたかとか見るなり、木彫り彩色の蝸牛(カタツムリ)を加えるのはやめようと決めたのです。