灯りの歴史を読むと、油を吸わせた芯で灯される明るさといったら、僅かに2ワット程度なのだそうです。
昔々私が小さい頃、家の便所にぼんやりと灯った電球が、確か4ワットだったと記憶するのですが、それからまた数十年遡る昭和の始め頃に、朝と夜の数時間だけだったとはいうものの、やっと田舎にも電気が来たのだそうです。
当時は、電球の明るさの単位を『燭(しょく)』といったのだとか、『燭』とは、蝋燭(ろうそく)の燭で、1燭は文字通り1本の蝋燭の明るさだというのです。
しかし、蝋燭1本といっても、太さとかに随分な違いがあるのですから、およそおおまかな基準に過ぎないのでしょうけれど、僅かに6燭の電球が、昼間のような明るさに思えたという亡母の思い出話からする通り、かつての夜がどれだけ暗かったことか。それでも、その光になってからの縫い物は、随分楽になったのだそうです。
昭和に入ってからですらそうなのですから、大名や吉原ならともかく、あらかた貧乏だった庶民が、満足させる明るさになるまで蝋燭を灯すなどあり得なかったどころか、蝋燭そのものが高価に過ぎて、1本たりとも使えなかったようです。
そんな、ひたすら暗い夜に起きていたところで、何が捗るわけもなし。燈油に使う菜種油は米の2倍もしたというのですから、その節約も強いられては、暗くなったら寝てしまうという方が、ずっと理に叶っていたことでしょう。
ところで、油を搾り取る技術の向上に伴い、油が値下りしたとか、更に安価な魚の油なら、臭いと煤(すす)さえ我慢すれば、何とか使えるようになった暮らし向きから、夜も手仕事に勤しめるようになったのだとか。しかし、起きている時間が伸びれば腹も空く。それが、1日3食の起源なのだそうです。
ともかく、灯りがあれば照明器具があります。3本の棒を縛って広げた上に、油を入れた皿を置いて、それに浸した紐に火を灯した道具を『結燈台(ゆいとうだい・むすびとうだい)』というのだそうです。火の大敵は風でしょうから、火が剥き出しの結燈台など、人が傍を通っただけですら危うかったはず。家の中ですら頼りないものだったでしょう。
ただ、垂れ下がる燈芯の曲線だけでも、溢れるばかりの情緒と美しさがあるのです。生活文化の道具というのは、機能と同時に、様式的な美感も追求されたように思うほど、実に美しいものが多いのです。
さて、節分の設えをと考えた時、檀紙に盛った大豆に鬼の面を添えるというプランを思い付くなり、それが結燈台に照らされる光景が浮かんだのです。早速図に描いてみました。
結燈台は、丸棒3本を縄で括って、白い絵皿を載せただけなのですが、あくまでも私の造る飾り物なのですから、灯火は勿論木彫り彩色です。火には溝を施し、皿の淵に差し込むように仕立てました。細い水引を燈芯に見立て、火に植えて垂らしたのですが、空の皿を見てふと思い立ち、淡い黄色に染めた絹に厚紙を貼って丸く切り抜き、皿に貼って菜種油としたのです。
全て遊び心で出来ているような節分飾りなのですが、何とか『節分の夜の灯』となったように思います。
しかしながら、こうしたプランには、いつでも気持ちが沸き立ってしまいます。それを実現させてくれる所があったらなおのこと。なかなかそうはいきません。あらかた、『素十氏の密かな楽しみ』で終わるものを、結構勿体ないなぁ...と思ったりしているのです。