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■ 近頃のこと

2020/04/14

猫婆さん

『人生、下り坂最高!』というのは、NHKの番組で自転車旅を続けている、火野正平さんの言葉です。

そもそも、生活経済を維持するというのは、自転車で坂道を登っているようなもので、漕ぐのをやめれば止まってしまうのみならず、ずり落ちてすらしまうのですから、遮二無二漕ぎ続けていなければ成り立たないわけです。

関わりたくもない、月並みと烏合の衆ばかりの組織や社会との接触を強いられながらの自転車走行といったら、往々にして理不尽に辛いばかり。だからこそ、ペダルを踏まずに進むことの出来る、なだらかな下り坂に辿り着けてからの人生を『最高!』としたのでしょうけれど、ともかくそうした時期にようやく至れたならば、余生を謳歌しなくていったい何の人生かと、私もまた思うのです。

さて、余生などという言葉が身近になったからでしょうか、今までの人生でずっと解決のつかないでいた疑問に、突然頭を支配されてしまうようなことが度々起こるようになりました。

そもそも、人生の目的を社会保障の上に叶えられるだなど、何だかだ言っても、この時代にあるが故の、極めて恵まれたことなのでしょう。ほんの半世紀少し前ですら、どうやって暮らしていたのかと思わざるを得ない、見捨てられ、置き去りにされたに等しいお年寄りなど、いくらも居られたように思い返すのです。

『猫婆さん』は、高台にある村の入口に通った三叉路の角にポツンと建った、一部屋だけの藁で囲ったような掘っ立て小屋で、何匹かの野良猫と暮らしていたのです。それで、猫婆さんと呼ばれていました。

電気が引かれていたのかどうかすら記憶にないのですが、その村の人と何らかの縁があったのだったか、そのつてで東京からやって来たような話だったように思います。今思えば、東京大空襲で焼け出された方だったのかもしれませんが、誰かのお妾さんだったのではないかなどとも言われてもいたのです。

田舎の人とはまるで異質に、いかにも都会の人という印象は、子供心にも明らかだったのですから、そんな言われ方をされたのかもしれません。
その小屋に母と行ったことがあるのです。

当時は祖母が元気でいたのに、何故必要になったのか、留守番を依頼しにいったように記憶するのです。母も祖母も確かなことは何も知らなかったようでしたし、留守番を頼んだくらいなのですから信用出来たのでしょうけれど、それでも本名すら知らなかったのではないかと思うのです。

最後の記憶は、学校から戻ると猫婆さんが座敷に座っていて、縫い物をされていたのでした。突然のことに、きちんと挨拶も出来なかった記憶ばかりなのですが、どんな顔で、どんな着物を着ていてなどすら覚えていないのに、その時に掛けてくれた言葉付きと姿勢だけは、どこまでが本当の記憶か分からないものの、覚えているような気がするのです。

社会保障などまるで当てにならなかったろう時代に、あか抜けて思えたからこそ尚更、いったいどうしてそうなって、どうしてそこに居ることになったのか。いったい何を食べていたのか。そもそも水は?風呂は?トイレは?いったいどうやって生活を営めたというのか。

そして、何を思いながら日々眠りに付き、何を思いながら目を覚まして起き出し、何を思いながら猫の死を看とり、何を思いながら自らの最期を受け入れたのだろうとか、痛々しいばかりに思い返されてならないのです。

弔いは村で出されたようでしたが、いつ亡くなったのか覚えていないものの、中学の頃だったか、一度その墓を尋ねてみたことがありました。集落の墓が連なる入口近くの墓の隅に、小さな土饅頭が潰れ掛かっていた記憶がその時のものではないかと思うのですが、情けないことにそれも確かではありません。

家の大工仕事は何でもその老人がしていた、どうやら文盲だったらしい、身寄りがなかった大工さん夫妻の墓もその辺りだったと思うのですが、その中に墓が連なる、鬱蒼とした山を数百メートル先に臨む道を車で通る度に、近いうちに焼香しに行ってみなければと思うのです。

今や高台の村は、集団移転によって無人になってしまいました。盆や彼岸でもなければ踏み入る人もなくなった墓では、どこの家かの墓地の片隅を借り受けた無縁仏が、もはや墓標一つとて無い平地になってしまっていたとしても不思議はないのです。だからこそ、たとえ消え失せたに等しい僅かな記憶であろうと、思い出しながら詣らないのでは、あまりにも不憫極まりないことのように思えて仕方がないのです。

現在、大きな大きな橘の立木制作に日を重ねています。出来上がりは、幅150、奥行100、高85㎝にもなるでしょう。橘の実106、花31、蕾45、葉2700~2800程度の規模になるかと思います。

お目にかけられる日を楽しみに。

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