伊達政宗の紋所は、竹に雀なのだとか。左右2本の太い竹を内側に曲げて丸紋にした中に、2羽の雀が嘴(くちばし)をくっつけて飛ぶ家紋なのです。どういう意味なのか、向かって左側の雀が口を開けていて、右側の雀が閉じた口をそれに挿し入れています。
さて、面白い依頼もあるもので、七寸官女用に幅三寸(9㎝)の洲浜台を使って、それをもじった(見立てた)『竹に雀の嶋台』を作れないかというのでした。
木彫り彩色の雀に、有職造花で作った竹の雛道具ときては、私ほど相応しい作り手もないだろうと、恐ろしい自負をあからさまにして、嬉々として作り始めたのです。
本当は、この春先に椿との組み合わせで制作したような真竹にしたかったものの、何しろ雀の嘴(くちばし)から尻尾の先端まで、僅かに1.5㎝という大きさなのですから、竹の葉を雀の体に対比させたサイズに仕立てるのにすら無理がありました。
又、あくまでも太い竹による紋所が基本ですから、孟宗竹の3本仕立てにしたのです。
立体の竹というのは、葉の繁った枝の扱いがなかなか厄介で様にならず、細い竹を3本加えて空間を補ったりしたものの、結局何時もながらに、竹は竹、雀は雀とのデフォルメに頼ったのです。
さて2種類の嘴(くちばし)ですが、別に厚紙で作って雀の頭に嵌め込むつもりでいたのものの、その長さが僅かに0.5㎜程度とあっては、とても切り抜いたり、嵌め込んだり出来たものではありません。
しかも、向かって左側の雀は、口開きでなければなりませんから、ともかく木彫りの段階で、0.3㎜程の僅かな突起を彫り出し、それに胡粉を置き上げて、それらしく仕立てました。
足は、絹糸を巻いた極細の針金を4本束ねて作りました。随分大きな足になったのもユーモラスに、可愛らしい雀の留まる『竹に雀の嶋台』は出来上がったのです。
しかしながら、いかに小さな雀といえども、拡大して雑なところばかりが露呈している木彫り彩色では頂けません。その要因の1つに、指先や目の衰えという、否応なく受け止めるしかない現実があります。
母は、女学校時代の仮名を見ると、いかにも尾上柴舟の手本を彷彿とさせる書き様でした。そんな女子教育の成果を物語るように、なかなか上手な日常の字だったのですが、それが晩年には見る影もなく、年齢による衰えとはこれほど残酷なものかと突きつけられるばかりだったのです。
かつて『国歌大観』というシリーズに載せられている全ての和歌を、2度までも書いていたご老人と話したことがありました。
その方は、大石隆子という、厳しく簡潔に、洗練されて無駄のない仮名を書かれていた書家の、数少ない男性の門下生とのこと。最晩年に書かれた色紙が手元にあるので、それを私に下さるというのです。
持って来られた色紙の字を見るなり、絶句してしまった私に、ご老人は静かに『そうなるのです。』と言われたのです。何から何まで、もはや見られたものではありませんでした。肉体の衰えというのは、厳格な基礎を誇った大石さんですら、避けようがなかったというわけです。
ならば、不器用な凡人など言うに及ばず。さっさと開き直ってしまえば良いようなものなのですが、また自分が楽しんだのみで終わってしまったなぁ...と、ちょっとしょげているのです。