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■ 近頃のこと

2020/09/24

Addio del passato―紅葉の平薬―

日に日に夕暮れが早くなり、庭の紫苑が沢山の小さな花を、長く伸びた茎の先端にアッという間に咲かせましたから、数本を手折って、便りを届けるように、彼岸の墓参で供えて来ました。

今年の夏といったら、際限無いまでの猛暑続き。その忌々しさの矛先をどこに向けることも出来ず、とうとう精神的にやられてしまうまでに閉口させられたのです。

しかし、今でこそこんな風に腹を立てて、また悲観までしているというものの、かつては宮古島の梅雨明けを待ち侘びて渡島し、日がな一日南島の海に浸かっていました。少しでも曇ろうものなら、太陽を遮る僅かな雲をすら恨みながら、遥かリーフの外海を海亀と一緒に泳ぎ回っていて、一年中夏なら良いのにとか本気で思っていたのですから、よくよく勝手なものです。

宮古島を最初に訪れてから、もう40年近い歳月が流れましたが、当時の南国への想いは、大瀧詠一の『オリーブの午后』という曲と結びついているのです。その前奏が耳に入るなり、瞬間に当時の気持ちにワープするのは、夏など忌々しいとしか思えなくなってしまった今ですら、全く変わることがありません。

ところがこの頃といったらそればかりでなく、同時に胸を締め付けられるような、切なく空虚な感覚にも襲われてしまうのです。

頭の中に、珊瑚礁の海とその向こうの白雲、モンパの木に吊るしたTシャツを翻して吹き渡る風、南島での溢れるほどの出来事や人々が、次々塊になって押し寄せられるほど、それが突然、秋の日が釣瓶落ちるように『Addio del passato(さようなら、過ぎ去った日)』との終止符でいきなり切り離され、ポツンと現実に取り残されてしまうからなのです。

自らの人生の黄昏時を知るのは、いつの間にやら自分の番になってからなものなのでしょう。

『Addio del passato』とは、歌劇『椿姫』の終幕でヒロインのヴィオレッタによって歌われるアリアです。恋人アルフレードの父親の嘆願によって身を引いたヴィオレッタが、今や肺を病んで余命僅か。訪れる人とてないベッドで、かつての日々を思いながら、全てが終わってしまったと、絶望に力なく歌うのですが、私にとっての宮古島での日々は、結局『若さ』というものの象徴なのでしょう。決して戻れない人生の前半を、今更のように思い知らされての、突然の胸の痛みと気付くのです。

そもそも、晩夏にどことなく物寂しい思いに駆られ、ふと夏を惜しむ気持ちに襲われるのも、実は否応なく年々近付かざるを得ない『若さ』というものとの訣別の時を無意識に予感するからではなかったかと思ったりもするのです。

制作中の私は、you tubeでオペラやピアノ曲を聴いているのですが、ピアノはChopinばかりです。

去年4月に逝った、愛猫のリンを看護する頃魅了されたコンチェルトの2番を、2015ショパンコンクールで次席だったカナダの若いピアニストの演奏でばかり、未だに聴き続けているのですが、付随されて登場する曲まで聴いてみるほど、Chopinの曲の多くは、演奏者自身も若さ故の苦悩や混乱の最中にあり、いわば繊細な未熟の年代にないと、演奏など叶わないのではないかと確信するばかりでいるのです。大御所を自認していたのだろう故日本人女流の『仔犬のワルツ』といったら、厚化粧で少女を装う如く、この上なくあざとい醜悪を晒すだけでしたし、ベテランの演奏ほど妙に分別臭く、本質から掛け離れたものとしか聴こえないのです。

さて、つい先日『紅葉』の平薬を仕上げました。紅葉だけでの平薬は、10数年ぶりだったでしょうか。

楓は、言うまでもなく薄く平たい葉ですから、随分沢山の葉を茂らせたろうと、角度によっては単なる線にしか見えなくなってしまうのが厄介で、さほど紅葉を好まないことばかりでなく、長く敬遠していたのです。

今回は改まって、葉の茎にも葉色に合わせた絹糸を巻いてありますが、葉が色付けば茎もまた同じ色に染まる自然に沿ったのです。

紅葉の盛りといえど、あまりに紅い葉ばかりにすると、かえって紅が殺し合ってしまいますから、黄色から濃い橙まで5種類に絹を染め分け、型抜きした葉の1枚づつに異なる紅を刺して紅葉させたのです。

苦手とは言いながら、何処かウキウキとした仕上がりになったのは意外なことでした。

紅葉の平薬

紅葉の平薬

紅葉の平薬

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