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■ 近頃のこと

2020/12/14

志々島憧憬

全く、吸い寄せられるような偶然とは確かにあるもので、それこそ何らかの縁(えにし)というものかと思わざるを得ないのです。私にとって楠(クスノキ)は、きっとそんな存在なのでしょう。

小学校4年5年の夏、父親の勤めていた会社の施設が逗子にあり、海の家として家族で出掛けたのでしたが、使っていた部屋の脇に大きな楠があり、窓から幹に乗り出せたのです。初めて見る、そして触った木肌といったら、日常には無かった物でしたから、今でも先ず二股に分かれた幹の太さや形まで、絵に描けるほど記憶しているのです。

その幹に素足で乗り、鬱蒼と茂りながら、どこか静寂感の漂う薄い葉に包まれると、大きな何かに抱かれるような思いになったのでした。

それから半世紀を経て、私が紹介したことに起因するのだという南方熊楠研究の道も歩む、最も親しい若い研究者が、和歌山の田辺市にある南方熊楠顕彰館で企画展をするというので、ならばと同行することになり、思いも掛けず南方熊楠の家に足を踏み入れる機会を得てしまったのです。

そもそも私が南方熊楠に着目した理由など、熊楠の業績などでは更々無く、その名前からなのでした。楠の一字にです。それこそは紛れもなく、逗子での体験以外の何ものでもなかったのです。

さてその帰路、楠の大樹があるから是非見せたいと言う友に案内された藤白神社で目にした楠の衝撃的な太さ、大きさといったら!良きも忌まわしきも、眼前に繰り広げられた時代時代の出来事を見届けながら、いったい何年を重ねたらそうなれるものかと呆気に取られながら、清々と茂る葉を再び仰ぎ見たのです。

つい数日前、亡骸を埋める場所と詣る場所とを分けた、両墓制というものを調べる機会があったのですが、それが未だに形が留められて見ることが出来る、香川県にある志々島という瀬戸内の小さな島の埋め墓写真を見るなり、一瞬で惹き付けられてしまったのです。

葬送墓制習俗として極めて貴重な民俗遺産であるその埋め墓は、死者を土葬したそれぞれの上に、祠のような小さな家を建ててあるのです。勿論、あの世で死者が家に困らないようにとの気遣いでしょうけれど、死者が暮らしていた家を燃して、あの世に持たせたアイヌの風習にも通ずるのかもしれません。

そのどれもが手作りらしく、立派な扉がある家もあれば、ガラス窓まで設えた家もあるのだとか。

正面に簾を下げるのが特徴だったそうですが、風雨に耐えさせるためなのでしょうけれど、そんな家をペンキ塗りしたのも珍しく愉しく、他地域の『穢れ』が基本の埋め墓と違った、穏やかな安堵の漂う墓になっているのです。

たまたまその日に限り、NHKBSの朝ドラをリアルタイムで見たので、後に続く火野正平さんの自転車旅までそのまま見ていたら、読まれた便りの思い出が『志々島』だというのです!しかも志々島には、地面を這うほどの大楠があり、それを訪ねて欲しいというのでした。何とも奇妙な偶然が、2つも重なっていたのです。

島に渡ってからのシーンは夜の放送だと言うので、即座に録画予約を万端にしたのですが、ソワソワした気持ちで録画に臨めば、火野さんが道を行く背中の向こうに、水色の屋根をした小さな埋め墓の家やらが道端に連なって目に飛び込んで来ました。多くの埋め墓が忌み嫌われるような場所に設けられているのとは異なり、港に近い、いわばメインストリート沿いに、しかも民家の続きにあるのです。

何しろ、かつては1000人いたという島民も、今では僅かに20人とか。夥しい蔓植物に埋まってしまった空き家も当たり前に目立って、今は土葬されることも無くなった埋め墓は、最早墓守りもままならないのでしょう。簾は飛ばされ掛け替えられることもなく、傾いて朽ちそうなままでいる家も多いのでしたが、身を寄せ合うようにびっしりと建てられた小さな家の穏やかな佇まいに、足元がフワフワと浮き上がるような気持ちが湧き上がったのです。

それを過ぎて、小高い山道を昇り降りした山間の緩やかな斜面に、まさに重さに耐えかねて地面に横たわらせたように這う太い幹やら、恰も掌を広げる如く空に伸ばした枝と葉が映し出された時には、得体の知れない感動と懐かしさに襲われたのでした。

『大楠神社』として設えられた赤い粗末な鳥居をくぐり、少し凹んだ根元の幹に身を預けて、再び便りを読まれた火野さんといったら、小学生の私がかつて茂る葉に包まれて感じたことのように、まるで楠の懐に抱かれて見えたのです。

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