さすがに秋の夕暮れになったのでしょう、薄暗くなってきたと思えば、あっという間に陽が落ちています。
沖縄の宮古島で、長く親しくさせて頂いていた具志堅善徳さんは、砂糖キビ農業の傍ら、数頭の牛を養い、更に『はやぶさ』という白い船で一日数回、宮古島本島から2kmほど離れた来間島(くりまじま)へ、また来間島から宮古島本島に渡る人達を運ばれていました。
ひたすら誠実に、並々ならない苦労を乗り越えて、それを寡黙な優しさに替えてこられた方でしたが、宮古島に足繁く通っていた間、幾度となくお世話になり、度々自宅に上がり込んでは、昼ご飯までご馳走になっていたのです。
5年前に奥さんを見送られた具志堅さんでしたが、数年に1度しか渡島出来なくなった私に、『あんたはもう、宮古を忘れてしまったのか。』と言われた時は辛かったのです。そんな電話も、ここ数年通じなくなっていました。
施設に入ったとの情報もあったのですが、既に90歳を過ぎておられますから、グズグズしていると間に合わなくなるとは知っていたものの、コロナに阻まれたりで渡島の機会を失してしまったのです。
先日、やっと連絡が取れたお身内の方から、この4月に亡くなったと告げられた時、突然何かがプツリと切れた思いがしたのでした。
宮古島には46回ほど渡りましたが、初めてはもう38年も前のことです。その前年に、生まれて初めて沖縄に飛んだのでしたが、その先は八重山諸島最南端の波照間島(はてるまじま)だったのです。
そのきっかけといえば更にその10年前、今でもゾッとするような十代後半のどん底から、進学を機に逃げるように上京して1年を経た春休みのある日、NHKラジオの『午後のロータリー』という番組を聴くともなしに耳にしていた時のことです。
その番組は、視聴者が便りと共にリクエスト曲を寄せるのですが、その日は西表島の診療所医師が、春の旅立ちの光景を綴ったものでした。
卒業間もなく島を離れる者を送ろうと、島民はこぞって港に集まるのですが、出航と共に友人達は次々と桟橋から飛び込んで、海の中から手を振って見送るというのです。
その瞬間私の頭の中に、知りもしない、見たこともない晴れ渡った八重山の空が大きく広がり、やがて憧れの地に替わったのです。
リクエスト曲は『碧空』というタンゴでした。
それから10年を経ても、未だ人生の方向も見えずに迎えた誕生日の後、ここまで落ち込むのならば、再出発だった19歳に戻ろうと思った瞬間、頭の中に広がったのは、あの西表島の空だったのです。
しかし10年の間に、イリオモテヤマネコの発見やらですっかり有名になっていた西表島でしたから、人混みを嫌った私は、それで波照間島に渡ったのです。
至極幸いなことに、波照間島での体験は、人生のターニングポイントの序章となったのですが、その翌年、再度の波照間島行きが叶わず、図らずも向かうことになったのが、宮古島だったのです。
何せ大きな島ですから、観光地化しているのだろうと思いきや、沖縄本島と人気の石垣島の中間にある宮古島は、まるで置き去りにされ、長い白砂の浜辺に人影もなかったのです。
道路は舗装の最中。軽自動車に子供が鈴なりに乗って、ドアが荒縄で縛ってあったりしましたし、来間島内の車には、ナンバープレートなどありませんでした。
どうしたわけか、島の人達と直ぐに打ち解けてしまえた私は、そこで生き方の180°転換を得たのです。
例えば山登りをする時、少しでも早く頂上に立つことばかり考えていたのでしたが、頂上に到るのが早かろうと遅かろうと、頂上に立ったということに変わりなどないのですから、ならば道草を食いながら、ゆっくり登った方がどれだけ楽しいかという生き方を、宮古島の人達に見たのです。
全く泳げなかった私でしたが、出来たばかりのスイミングスクールに通いながら渡島を重ねるいつの間にやら、漁師達から『外海のシュノーケリングポイントなら、あいつに聞け』と言われたものです。
どこに行けば海亀と鉢合わせ出来るとか、星砂が山になって点在する、泳いでしか行けない小さな浜まで知っていました。
エメラルドグリーンのサンゴ礁を越えて、リーフの外海を1時間半も泳ぎ回って戻れば、誰もいない新城(あらぐすく)という浜辺のモンパの木の木陰に休むのです。
枯れ枝に干した白いTシャツがはためく向こうに、コバルトブルーの水平線を眺めながら、ああ、自分は南の島にいるんだと、梅雨明け直後の強い紫外線と波の音に溶け込んでいたのです。
『オリーブの午后』という曲は、ナイアガラ・トライアングル vol.2のレコードに収められた、大瀧詠一ならではの真夏の讃歌のような1曲ですが、そのイントロといったら、真冬ですらそんな日々に一瞬にしてワープさせてくれました。
数日前、削除され続けていたのか、you tubeにまるで見つけられなかったナイアガラ・トライアングル一連のオリジナル演奏が、ズラリとアップされているのに気付きました。
直ぐに『オリーブの午后』『白い港』『ペパーミント・ブルー』を立て続けに聴いたのですが、少しもときめくことはなかったのです。
宮古島の懐かしい風景などとうに失われ、今日帰るという30男にお小遣いをくれたオバアも、自分のような者の孫と仲良くしてくれてと頭を下げられたオジイもとっくに亡く、当たり前のように自転車まで船に乗せてくれながら、運賃も取ってくれなかった具志堅さんすら、とうとう亡くなられたのです。
しかし何より、あの頃の私がもういないということなのでしょう。
染井吉野立木の完成は、きっといつの間にやら達していた、有職造花制作最後のターニングポイントだったように思わされるのです。
後は、この道を全うするだけになりました。