ポツポツと依頼が届く度に、直ぐに制作に取り掛かって、それをこなすという日々が続いています。
制作も仕上がりも充実していればいるほど、あまりにもあっという間に一日が過ぎてしまうのですが、その要因は日々の雑用にあるように思えて仕方がないのです。
例えば、天気が良いから制作を始める前に洗濯をしてしまおう。布団も干してしまおうとかしていると、それを終えて制作に入る頃には、もう10時を過ぎていたりするのです。
ロスを取り返すように制作をして、さて昼ご飯を用意しなければと台所に立つ頃には、もう13時半とか14時を回ってしまっていますし、食べ終えてひと休みするうち、うたた寝でもしようものなら、もう陽の光が弱くなってしまっています。
そそくさと布団や洗濯物を取り込んで、また制作に戻りはするのですが、風呂の掃除がまだだったとか、今日こそ買い出しに行かなくてはならなかったとかいう日常の繰り返しがまた出て来るのですから、それが制作の時間を食い潰して、足らない時を否応もなく押し出してしまうような気持ちにばかりさせられるのです。
そんなであろうが、ゆったりでも、忙(せわ)しなくでも、何はともあれ制作三昧でいるのを、友人達が大木素麺とか大木素うどんの仙人暮らしだなどと悪口叩いている中で、いよいよ私は一方的に雀に思いを寄せているのです。
生き死にのサイクルとか、雀の生態も知らないまま、ただ毎日数回納屋の屋根に撒く古米にやって来てくれる雀を待っているのですが、最も食べ物が無い筈の真冬になると、どうしたわけか1羽も姿を見せなくなるのが毎年の疑問でした。
何故かとインターネットで調べれば、とりわけ雀の子らといったら、そもそも冬を越せる者など僅かでしかないのだそうです。来たくても、来られなかったのでした。
それがどうしたことか、一段と寒さの厳しかった今年の冬だというのに、ずっと沢山でやって来てくれていて、屋根の古米ばかりか地面に落ちた粒まで、私が起き出す頃には、きれいさっぱり食べ尽くしてくれているのです。
屋根に撒く餌を待ちたる雀らは我先降りぬ葉の落つるごと
降りては飛び飛びては降りる雀らは啄む余裕の幾許も無し
何処の木に集い居りしや雀らの声けたたまし庭に春寄る
待ち人の車着きしか雀らのかしましき声一瞬に止む
1羽でも多く、すぐそこまで来ている春を迎えて欲しくて、今日も制作と雑用の悶々たるせめぎ合いの隙間に、花咲か爺の如く納屋の屋根に古米を撒いては、仕事場の内側から息をこらして見守っています。