手を加えては、また手を加える修正や追加を重ねながら、紫外線をシャッタアウトした状態で保管していた染井吉野立木でしたが、先日やっと引き取られて行きました。
1200kmほど遠方から、車で取りに来られたのです。
確かな出来上がり寸法を知らせていましたから、車は2tトラックしかないはずが、随分背の低い荷台の車で、やはり入りません。高さが足らないのです。
染井吉野立木は、高さが158cmあるのですが、その車は130cm程しかありません。些か途方に暮れてしまいました。
詳しい経緯は省きますが、1200kmを戻って車を替えて出直すのに、何の大変さも面倒さも感じない。完成したものを見てしまっては、何としてもこの形のまま飾りたいからと言われるのです。
そう言って頂けたのならば、もう十分に思いました。
ですから、ならば思い切って高すぎる枝を途中から切り離し、切断面に穴を開けて、元通りに接続出来るように細工してみようと提案したのです。
切断は5箇所に及びました。
作業は思いの外上手く出来たのですが、切り離した枝先は、箱に入れて運ぶしかないのですから、何しろ夥しい花の付いた枝先のこと。どうしても元の形を維持することなど出来ません。
小枝の向きなど、ピンセットで一つ一つ調整する程微妙に枝振りを整えて作るのですが、さりとて私が1200kmを飛んで直しに行けるわけでもないのですから、ともかく貴女が見映えの良いように枝を整えてくれれば良いからと、その辺は諦めざるを得ないまま、どうにか送り出したのでした。
何度も何度も手を振って戻って行かれましたが、安堵するような、心残りを引きずるような、双方の気持ちは今も続いているのです。
手直しといえば、またまたはるか遠方に嫁ぐ事になった嶋台もなのでした。
桐箱の底に貼り付けた、木材の枠でガッチリと固定してあった嶋台が外れて、中に転がった状態で届けられたのです。
どう運んだのか、あろう事か木枠が折れていました。どこかで落としでもしたのでしょう。
幸運にも買って頂いた方がとても理解のある方でしたから、的確な処置と配慮で送り返して頂けたものの、戻った荷物を配送の方と開けてみれば、何と真横に梱包されていたのです。
勿論、梱包を請け負った運送業者の仕業なのですが、それを目前にした配送の責任者が、まさに言葉を無くしてしまっていました。
嶋台を固定する木枠をネジで補強し直して頂いていなかったら、再び転がって、更に破損を上塗りしたところでしたから。
外国人労働者が増えたりで、運送業者側にも以前の水準を保てない、切実な状況があるのだとか。
ならばこそ、運搬中の事故の可能性を回避するのは、荷物を出す側、荷造りする側の幾重もの防御対策によるしかないのだと、つくづく思い知らされたのでした。
その嶋台ですが、昭和初期に丸平大木人形店によって制作されたものの写真から、出来る限り正確な復元を目指したものでしたから、随分と気合いの入った、また改まった完成度になったのです。
洲浜台が2尺(60cm)もある大きな嶋台でもあり、非売品として手元に置くつもりでいたのですが、染井吉野立木を完成してからというもの、過去の制作物は所詮過去のものでしかないという気持ちになってしまって、それで求められる方がそれなりの方であったなら、お譲りしても良いという気持ちに変わっていたのです。
嶋台は本来、三宝に載せて飾られるらしいのですが、それをお伝えすると三宝を誂えると言われます。洲浜台が2尺もあるのですから、それが載る三宝は、一辺が1尺5寸(45cm)も必要です。
しばらくして、白木の三宝に載せられた嶋台画像が送られてきた時、あゝ成程、嶋台とはこうされて初めて完成なのだと思い知ったのでした。
さて、今年の雛の節句に、二番親王を屏風の前に飾りました。思えば、2011年の震災と重なった展覧会以来のことです。
お供は、尺の居稚児に刺繍の官女(尺2寸)2人、そして五節舞姫(尺3寸)です。
この部屋いっぱいの雛段を設え、そこに二番親王尺3寸27人揃を飾るという、恐らく生涯一度きりの計画の実行が、今年もオミクロンの前に潰えながらの雛飾りなのでした。