藤原定家が詠んだ十二ヶ月の花と鳥の歌による図案だといいながら、今に残る少なくとも2種類の平薬図案の一月が、柳ではなく松竹梅だったことから、歌の通りの柳の花の平薬制作を思い立った経緯を前回に書きましたが、既に鶯を止まらせれば完成というところに来ています。
『拾遺愚草』巻中、花鳥各十二首なのですが、私には別段なんということも無い歌としか思えないのです。
それはともかく、平薬や六曲一双12面の屏風に使うため、その図案化に選ばれたというのは、12という数の都合の良さが一番の要因だっただけのことなのではないかと思っています。
尤も、尾形乾山も陶器の図に使っていますから、私には価値が分からないだけなのかもしれません。
さて、有職造花というのは、結局のところ公家文化の儀式や行事に使われたものとして、それが商いの謳い文句には最適で、大名やら豪商相手に高い価で売ることが出来たのが、存続と発展の大きな要因だったろうとも考えるのです。
以前から書いてきた通り、一月の花が、歌に違えて松竹梅になったのは、『柳では花負けするから』とか『花美にせんとて』とか、もっともらしい注記があったところで、所詮柳の花では商品として地味に過ぎるため、売れ筋の松竹梅に替えざるを得なかったというのが本音なのではないかと思うのです。
一月のみならず五月の図案も、定家が五月の花として詠んだのは橘なのにもかかわらず、菖蒲に替えられているのも、同じ理由によるのでしょう。
五月の図案には、一月のような注記すらありません。
ともかく、柳の花と鶯をモチーフにした平薬の図案がないのですから、曲がりなりにも有職造花師を名乗っていることだし、誰に挑むわけでもない、使命感の類いなどでも更々ないものの、ならば私なりの柳と鶯の平薬を作ってみようと、甚だ大まかな図案を描いてみた翌朝から、せっせとパーツの制作を始めたのです。
以前に、平薬とか瓶子の口花で、柳や柳の花を作ってはいるのです。
平薬は夏の季節。繁った柳の合間を飛ぶツバメのものだったのですが、とにかく構成に難儀したのでした。
柳は、何本もの枝が向こうの景色を遮るほど下がりますから、立木ならともかく、輪の中に収めなければならない平薬でそれを再現しようとすると、あまりにも五月蝿くなり過ぎてしまうのです。
とうとう、植えた柳の殆どを引き抜いてしまった苦い経験があるのですが、今回は柳の花ですから、それぞれ300近い花と葉を作って枝を仕立ててから、さあ構成をと始めてみれば、案の定なかなか上手く行きません。
それでも、垂れ下がることに囚われず、枝の角度を変えたり、少し手前に引き出してみたりと、何やかやしていたら何とかなってしまいました。
花がメインで、短い若葉であることも大きな助けになったと思います。
鶯も昨夜出来上がったことですし、中央の小枝に止まらせたら、いよいよ至福の微調整に入ります。
もちろん柳を扱いきれたわけではなく、手放しに喜べる出来でもないのですが、春先の制作はとても楽しめたのでした。