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■ 近頃のこと

2022/09/05

カーテンの中にて

スポーツも得意でしたし、30代中頃でも8000mを平気で泳いでいたというのに、小児喘息以来よく病気をしていて、成人してからも何度となく入院しました。

大した病ではないので、最も長くてひと月程度でしたが、病棟というのは何処であれ、まさに様々な人間の坩堝ですから、『大変でしたね・・・』などという心配に反して、入院生活は随分楽しめたのです。

毎夜、信じ難い口汚さで看護師を罵る老婆の大声が、深夜の病棟に響き続けた時がありましたが、どんな人なのかあまりに興味深くて、割れるような頭痛でフラフラだったにもかかわらず、点滴の台を押しながら見に行ったものでした。

身寄りもなく、市の金で入院しているのだそうで、どんな人生の末にそんな晩年を迎えなければならなかったのか、ベッドに埋もれるように沈んだ姿は、やり切れない様に哀れでした。

夜中、トイレに起きた90過ぎのおじいさんが、何に躓いたのか、大きな音を立てて倒れたことがありましたが、それから一気に認知症が進んでしまったのです。

私の向かいのベッドでしたし、認知症自体が非常に興味ありましたので、家族の頼みもあって、座薬で痛み止めした私が面倒を見ることになったのです。

息子のお嫁さんが、甲斐甲斐しく世話をしに通って来ていたのですが、そのお嫁さんの言うことは聞かないのに、どうしたわけか時折来る孫娘と私の言うことだけは聞いてくれるので、看護師への連絡とか、いきなりのトイレの世話とか、何度となく通路を横切って駆け付けたものでした。

『ああ、漏れる!漏れる!』と、ベッドの上に立ち上がるなり、いきなりパンツを下ろした事があって、初めて93歳の尻を目の前で見ましたが、古座布団のぺしゃんこになった綿そのもので、こんなになるものかと妙に感心したのです。

地位のあった方だからなのでしょう、消えないプライドから主治医とトラブルを起こし、私が退院して間もなく病院を追われたのだと、亡くなった後、わざわざ挨拶に来てくれたお嫁さんから聞きました。

在宅介護は、さぞかし大変だったでしょうけれど、亡くなる前日、全く記憶など出来なくなっていた筈なのに、布団の真ん中にきちんと正座して、『長い間、お世話になりました。』と、深いお辞儀で挨拶をされたそうですが、その夜から昏睡状態になり、そのまま息を引き取ったのだと、涙を流されながら話していました。

イヤホンでテレビを見ているので、突然ケラケラと、いかにも単純そうな笑い声を無遠慮に響かせていた親父もいましたが、面白かったのはその見舞い客なのです。

入院を耳にしたのだろう近所の人達が、田舎ならでは、近所付き合いの義理だけで、入れ代わり立ち代わり見舞いに来たのでしたが、その挨拶が良いのです。

いかにも農家の人らしく、『ホントによぉ・・・何だって、そらもうあれですから、ゆっくりあれして。』と、意味もわからない『あれ』を連発した義理の挨拶を繰り返しては、皆そそくさと帰ってゆくのです。

あの親父、よほど人望もないのだろうと、カーテンの端から覗き見れば、それに相応しい馬鹿面だったのでした。

さて、今回の病室は4人部屋にもかかわらず、どの患者も固くカーテンを閉ざしていて、とうとう一人も顔を見ることがなかったこととか、がんという病気の切実さを窺い知るように思いました。

漏れ聞こえる言葉や、医療スタッフとのやり取りからは、追い詰められた悲観や苛つき、そして孤独が押し寄せるのです。

そうであればあるほど、何故自分は、残していかざるを得ない猫のことしか頭になくていられるのか、場違いを申し訳なくすら思ったのでした。

がんを患ったことは、周囲の人達の方がずっと深刻で、高価な薬を送ってくれたり、まだ成し遂げなければならない制作がいくらも残っているのだからとか、切実に励ましてくれたりするのに、当人は他人事のようでいるのです。

タクシーから初めて目にした、そびえ立つような大病院で、自分が手術を受け、入院の寝起きをするだなど、凡そ実感が持てなかったのでしたが、結局そのまま。
もちろん、今もです。

命の終わりを突きつけられるなどという意識は毛頭なく、同じように閉ざしたカーテンの内の1人だったにもかかわらず、まるで呑気でいたのです。

青桐の有職飾り制作が始まりました。

染め物

葉っぱ

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