11/6、羽田11:55発で宮古島に向かい、翌日7日11:45宮古島発の飛行機で、お通夜と告別式を済ませて戻ったのです。
宮古島での体験が、私の人生を180°転換させてくれたという話は以前に書きましたが、初めて渡ってから39年間、最初から最後までそれを育み、支えてくれたのが、かつて民宿かわみつの主人だった川満アイさんでした。
そのアイさんが亡くなったのです。90歳でした。
ずっと、いつ来れるのだろうと待っていたのに、来る来ると言いながら来ない私を『来る来る詐欺』と呼んでいるんだとは、アイさんの長女の言葉ですが、グズグズしているうちに、また取り返しのつかない不義理をしてしまいました。
心臓の疾患から、急激に弱ったという知らせで、10月20日に8年ぶりに渡島することになり、航空券などの予約もすっかり済んでいたのですが、その数日前に緊急入院したのです。
救急車で運ばれる時も、私にキャンセルさせないと・・・と心配していたのだと、これも長女から聞きました。
コロナ事情から、家族すら面会も叶わない状態の中で、延命治療を拒否したまま、11月5日の明け方3時55分に、呼び出された長女にだけ看取られて、息を引き取られたのでした。
民宿かわみつとの出会いは、当時宮古島の観光情報など殆どなかった中で辛うじて知ったのが、数キロ続く砂浜だという与那覇前浜で、その近くに民宿があれば、そこに連れて行ってと乗り込んだタクシーの運転手によってもたらされたのでした。
当時は民宿ばかりでなく、昼のうちは食堂もしていたのですが、その忙しいさ中に着いた私に、わざわざタクシーまで出て来てくれて、こんな汚い所でも良いか?とにこやかに言ってくれたのが最初のことでした。
その時に食堂の手伝いをしていたのが、東京から一時戻っていた長女だったのです。
会いに来るならば、もう少しでも早い方が良い。退院して状態が良い時に必ず自分が知らせるから、いつでも来られるように待機していてと言ってくれたのも、空港からタクシーで真っ直ぐに斎場に向かい、降り立つなり鉢合わせしたのもその長女でした。
不思議なもので、あたかも回遊して元に戻る鮭と同じように、例えばボケた老人が、生まれた場所に戻ろうとするように、成程、最後に辿り着いた先は、遡る最初の時にあったというようなことが頻繁に起きるものですが、アイさんとの別れの時も長女と共に在ったのには、やはり元に戻ったという印象を強く残したのでした。
3年目辺りからだったか、宿泊代も取ってくれなくなり、だからというのではないのですが、民宿客の食事の用意、洗い物、馬の世話、掃除、客を海に連れてゆく等など、色々な民宿の手伝いもしていた宮古島生活でした。
近所の人達との関わりも深く、ある時の1週間の滞在で最も多かった出費が、香典とか卒業祝いとかの、近所付き合いだったことすらあったのです。
あたかも同窓会のように、斎場で温かい再会を果たしたのは、宮古島の人達ばかりだったのでした。
良いも悪いも思い出は溢れるばかりながら、とうとうアイさんまで亡くなってしまった今、それらを語る気持ちがすっかり失せて、やっと今になってこれを書いている有様なのです。
否応も無く別れが来て、時代が終わり、そうやって区切りが付けられてゆくのでしょうけれど、人生を転換させた宮古島の要にあったアイさんは、宮古島との良き時代を個人的な出来事として、封じ込めてくれた人にもなったのです。
人生が終わると同時に、その人しか知ることのない本当のところも消え失せるのでしょうけれど、そうであろうがあるまいが、私はもう宮古島を語らないでしょう。私だけの知る宮古島での時間も、私と一緒に墓に入るのです。
朝一番の告別式でしたが、火葬が終わるまで滞在の時間が無く、荼毘の途中で長女と次女が空港まで送ってくれました。
ひたすら落胆をのみ呼び起こす、昨今の宮古島の変貌を見ることもなく、再び機上の者となりましたが、窓際でつぶさに宮古島を眺めながら降りた行きの飛行機とは違って、帰りはまるで外を見ることの出来ない、中央座席の中央なのでした。
そのせいでもなく、ただぼんやりとして、みんな随分と歳を取ってしまったけれど、しかしちっとも変わっていなかったものだなぁと、思い返していたのでした。