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■ 近頃のこと

2023/02/28

春めく光に

何処より出たるものか蜘蛛の糸朝陽に浮きて光りて走る

暮らしの中で常にというのではないのですが、私は折につけ短歌を詠んで来ました。

日常の一瞬が、頭の中で短歌として浮かび上がった時に書き留めたり、記憶しながら修正を加え続けたりしてきたのです。

とにかく『捻り出す』という類の、小賢しい作り物ではない、感じた、感じられた、ささやかな感動の風景や出来事のそのままを、三十一文字に詠いたいだけなのです。

およそ芸術の範疇のものなら、先ず『感じること』から始まらなくてはなりません。

造花といえど、色も形も成り立ちも、自然観察とその感動が伴われなければ成り立たないのです。経験だけで作っては、単なる作り物の花紛いになるだけのことです。

例えば、漫画からしか漫画を学んでいない漫画家が、髪型を変えたり、眼鏡をかけさせたりしなければ、区別もつかない同じ顔しか描けないように、アートフラワーにありがちな、造花から学んだ造花では、自然の息吹など宿る筈もなく、オリジナリティも『捏造』を出るものではないでしょう。

長々しい前置きはさて置き、やがて短歌に惹かれることになる最初は、中学2年の国語の授業によってでした。

俳句と和歌を取り上げた授業があった時のこと、野球部の顧問で、剃刀を潜めたような鋭い眼光が恐れられていながら、それ故優しさが際立ったのか、人気の高かった国語の教師は、生徒に勝手な解釈をさせ、それを発表させたのです。

どんなに稚拙で勝手な解釈でも、頭ごなしに否定することなく受け入れてくれながら、正当な解釈法に誘う授業でしたが、そこで私はハッと目が開いた心地になったのでした。

『菜の花や月は東に日は西に』と『東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ』という俳句と和歌から、先ず日暮れにやっと出た月と、明け方に未だ西に残る月から、月の形も読み取ることが出来るのだという根本的な解釈法に、驚いてしまったのでした。

その後、高校の授業で知った北原白秋と木俣修の歌に、すっかり魅了されてしまうのですが、それというのは、そこに詠われた『色彩』と、彼らの『感じ方』への共感なのです。

常磐津の連弾の撥いちやうに白く光りて夜のふけにけり

行春をかなしみあへず若きらは黒き帽子を空に投げあぐ

思えば、『菜の花や』と『東の』もまた、14歳の私の記憶に焼き付けたそもそもは、既に『詠われた色彩』にあったのかもしれません。

さてその国語の先生ですが、担任と上手くいかなかった私を、どうしたわけか何のかのと良くしてくれて、担任の目に触れないところで、助言すら貰ったこともあったのです。

30代の中頃、水泳の仲間達と連れ立って、評判のラーメン屋に行った事があったのですが、そこに1人でラーメンをすする先生が居られました。

20年ぶりの、思いもかけない場所で突然の再会でしたから、挨拶も満足に出来ないまま、先生は先に出て行かれました。

ラーメン屋の直ぐ近くに、派手なネオンのパチンコ屋があったのですが、パチンコとはまるで無縁の私達は、みんなで行ってみようかという話になったのです。

ワイワイと移動すれば、何とまた先生がそこに居られたのです。

台の前に所在なさげに座られていたのでしたが、あれほどバツの悪そうな、やり切れなそうな顔など、見たことがありませんでした。

何があったのか分かりませんが、よくよく家に足が向かなかったのでしょう。出来るだけ何気なく笑って別れたのでした。

その頃だったか、その後だったか、校長をされていた小学校で児童の事故があり、新聞でも随分騒がれたのを私も耳にしましたが、その後二度と会うことも無く、短歌の楽しみはあなたから教えられたのですと伝えることも無く、先日偶然の人伝に、亡くなられていたことを知ったのです。

今思い出して浮かぶのは、最後に見た戸惑って寂しげな表情と、張られた蜘蛛の糸に走った朝陽にも似た、鋭い目の光です。

春めきし光の中を小(ち)さき蜘蛛綿毛の如く降りて行きたり

もう3月は目と鼻の先になりました。
ガンの再発かと思った腫瘍でしたが、良性だとわかって迎える、安堵の春先です。

男雛顔

男雛全身

女雛顔

女雛全身

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