先月は、藤の季節を先取りするように、柄杓(ひしゃく)に藤のひと枝とか、松に藤の平薬などなど、まさに藤の花の連作だったのです。
それらを全て仕上げた頃、ふと見上げた裏山の、鬱蒼と茂る木々の上に、いつの間に山藤がその蔓(つる)を張り巡らせていたものか、瑞々しい若葉で覆い尽くしながら、無数の薄紫の花をビッシリと垂れさせていました。
その美しさと情緒といったら、ただただ呆然と眺めるばかりで、とてもスマホのカメラなどで写しきれたものではなく、幾度かシャッターを押してはみたものの、直ぐに消してしまった程で、とうとう1枚の画像も残せなかったのです。
それは、物心ついて以来の昨年まで、そこに山藤の花など一房たりとも見られなかった驚きからでもありました。
一体どこから伸びてきたものか、何れにせよ実に驚異的な速度で伸びたのでしょうけれど、朝日を邪魔していた椎の巨木も枯れ枝が目立って来たり、立ち枯れの木さえ白く現れ出していた裏山が、新たに甦って思えたのでした。
それにしても、自然の営みとは随分気紛れなこと。小学生の頃から山藤に目を奪われていた私は、鎮守のある森に小さな実生の株を見つけるなり、直ぐに掘って来て庭に植えたのでしたが、とうとう今まで全く花をつけません。
今年こそ今年こそとの願いもとうに忘れてしまった程の今年になって、あっという間の裏山の出来事に、呆れさせられてしまってもいるのです。
さて、一般的に男の身で、家業というのでもなく絹の花を作っているだとか、雛のコレクションがあるだとかいえば、たいていはスポーツなどにはまるで縁のない、物静かな人間を思い浮かべられるようです。
それも無理からぬことなのでしょうから、かつて夏ともなれば、17時前に服の下は水着に着替えていて、終業時間と同時に職場を飛び出して、車で10分程の所にあった市営プールに駆け込んでは、休み無しに18:20まで毎日3600mを泳いでいたのだとか言うと、随分意外だという反応が返って来ます。
そんなことはさておき、面白いことにスポーツというのは、競技方法を文章で説明すると、何とも滑稽でえげつないものになるのです。
①地べたに書いた丸の中にデブを2人入れ、容赦なく地面に転がして砂まみれにするか、丸の外に放り出して砂まみれにしては、ドヤ顔をする。
②いい歳をしたオヤジが、これでも喰らえ!とばかり投げつけられた球を、棍棒で遠くに飛ばしている間に、人の家を踏んずけて戻ってくる。
③こともあろうに、足蹴にするようなものを人の家に蹴飛ばし入れては、臆面もなく馬鹿面晒して飛び上がって喜ぶ。
④人が要らないというものを、力づくか姑息な手段で相手に押し付けては、ざまぁみろと嬉しがる。
と、こんな具合なのですが、言うまでもなく、相撲、野球、サッカー、バレーボールのことです。
この話をすると、大抵は笑い出しながら『何かスポーツに恨みでもあるんですか?』とか言われるのですが、文章にした時の理不尽さは、スポーツが所詮擬似戦争であり、何のかの言ったところで、若さの力づくが罷り通るからでしょう。
さて、『体力と分別の欠如に溢れていた頃』を遥かに過ぎ去って顧みれば、だからこその出来事が、殊更哀愁を帯びてすら点在するものです。
通院のため、滅多に乗らない路線を行き来するようになった途中の駅前に、19歳の頃友人とよく行ったカペーという喫茶店が、まだそのままあるのを知ったのです。
戻りたい過去など無いに等しく、当時のものは卒業アルバムをはじめ、油絵から小さなメモに至るまでことごとく焼き捨ててしまいながら、19歳の1年だけの記憶は消し去ることが出来ず、屈折した不安と漠然とした将来の夢を共有出来た唯一の友人が、今もそこに居続けているのです。
20歳を迎えて表れ出した方向性の違いから、僅かにその1年きりで離れざるを得なかった友人が、その後にどんな人生を掴んだのか、それだけは知りたいと思うのです。
それというのも、今の私が、19歳当時には存在すら知らなかった分野に、生涯の目的を得ているからですし、19歳が紛れもなく人生の原点だったというのに疑いもないからなのです。
数日後、どうでも行ってみようと、半世紀ぶりに訪ねた喫茶店でしたが、オーナーは当時の夫妻の身内の方と代わっていて、店の様子にも思い出すものは全くありませんでした。
その駅に降り立つことはもう二度とないでしょうけれど、そうやって一つずつ思い出を閉じてゆくのが歳を取るということなのだろうとか思いながら、僅かに20分程の滞在で、下りの電車に乗ったのです。