9月23日、雨模様の気温は涼しさを通り越した程で、タオルケットに包まったまま、7時近くまで眠ってしまいました。何ヶ月ぶりだったでしょうか。
9月に入っても灼熱の太陽は少しも衰えを見せず、およそ残暑などという水準にない猛暑が繰り返されていたのに、肉体的にというより、精神的にすっかりまいってしまったのです。
Tシャツを脱ごうにも、ジットリと汗にへばりついて脱げない時ほど、夏という季節を呪わしく思う事はありません。
南島の人達と海を知る以前の20代には、『夏など、土用の3日もあれば十分!』と忌々しく嘆いてばかりいたのですが、泳ぎからも南の島からも遠ざかってからは、すっかりその頃に戻ってしまったのです。
7月8月と、室温が35℃にも達した異常な暑さの中、何故か制作意欲の高揚に取り憑かれて、創作12ヶ月平薬を一気に仕上げ続け、残り2つのうち、『萩に雁』も8月30日に作り終えたのです。
とうとう最後となった、7月『女郎花にカササギ』の平薬制作に行き詰まったまま、日差しと暑さからの解放に、最後の望みを繋いでいた9月の到来だったにも関わらず、目を覚ますなり飛び込んでくる山の端の朝日が、8月と何ら変わらない、射るような強い光で日照りの延長を告げている毎朝に、すっかり気落ちさせられてしまったというわけです。
ともすれば、何でもかでも軽々しく、『鬱』『うつ』と公言して憚らない今日の傾向などに染まりたくもありませんが、あたかもそれまでの気持ちの高ぶりが仇となったように、有職造花制作どころか、暮らしそのものが面倒なだけになってしまいました。
横浜での展覧会以降、制作依頼どころか、問い合わせすらまるで絶えたのも拍車をかけたのでしたが、そんな現状にあって、季節季節の飾り物を毎月のように依頼して下さる方が居られました。
今月初めにも、コンパクトな秋の飾りとして、色づき始めた楓と、すっかり色付いた楓の2枝をというご依頼を頂いていましたので、それだけでも今月中に納品しなければと、重い腰をやっと上げてみれば、手が勝手に動くのです。途端に、気持ちが安らいで行きました。
気にそまない旅を余儀なくされた末に、わが家に戻った時のような安堵と言ったら良いでしょうか。
今更ながら、私にはこれしかないのでしょう。
沈んだ毎日でいるうちに、いつの間にか彼岸の入りを迎えていたのを、来客の言葉で知りました。
早速、庭に群生する紫苑(しおん)を抱えるほど折り、花の盛りを過ぎた女郎花も加えて、墓掃除と墓参に出かけました。
『在』という漢字の草書を1字だけ刻んだ自然石に、7年半を経て漸く、白緑の苔が定住してくれていました。
およそ300年。どれだけの者がこの家に産まれ、また嫁いで来、この墓に入ったものか。家は貰い火で昭和5年に、旦那寺も太平洋戦争時に焼け落ちていて、知る術は全くありません。
確かに共通するのは、その誰もが、ある期間この家に『在った』ということだけなのです。
それで『在』とだけ書き、刻ませたのです。
彼岸の墓参に、米を供えるのを忘れていました。
墓の周りで折ってきた細い篠笹を墓石の前に刺し、それに新米を包んで来た半紙を裂いて結んでくるのが、春秋彼岸のしきたりなのですが、そんな光景などまるで目にすることもなくなりました。
彼岸は過ぎましたが、ともかくもう一度、また山ほどの紫苑を抱えて、お墓参りを致しましょう。