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■ 近頃のこと

2023/11/19

落ち葉舞う頃

毎年今頃の時期になると、19歳当時に通学で毎日のように歩いた、玉川上水脇の雑木林にある、自転車がやっとすれ違えるほどの裏道を思い出すのです。

思い出すというより、思い出さずにいられない何かに、否応なく突き上げられてしまうという方が正確でしょう。

駅を降りて、商店街の表道と反対側に歩いて入る裏道なのですが、新緑の頃には黄菖蒲の咲く一画があり、その先のそこだけに何本かのエゴの木があって、真っ白な花弁にオレンジ色の雄しべが際立つ花が、瑞々しい若葉の根元にびっしりと垂れて一斉に咲いたのです。

それが、道の入口からすら真っ白な塊に見えましたし、開花すると花の香りが伝わってきて、花盛りは近寄るまでもなく知れたのでした。

夥しい数の花は、数日後いっぺんに落花するので、道は真っ白に覆われ、それが吹き過ぎる風で水のように流れました。

せっせと小説を書いていた頃、『花の濤』という長編の最後に、その光景を使った事があります。

エゴの花が足元に流れるのを見た主人公が、そこに立ちすくんで、『ああ、花の濤だ。』と胸の内に呟くのです。

下道は、クヌギを中心とした低木の雑木が、玉川上水に沿って数kmも続く中に、雑木を間引いて踏み固めたような、勿論舗装などされない土の道です。

所々には、武蔵野特有の逆さ箒と言われた欅(けやき)の大木が、空に枝を広げているのでした。

玉川上水に垂れる山吹が、殊更明るく鮮やかな黄色に光ったのは木漏れ日のためで、幾重にも茂った雑木の葉は、小雨を遮る屋根にもなっていたのです。

それが秋の深まりと同時に、ことごとく色を変えて落ち尽くすのですから、日に日に空が見え出すほど、下道は枯葉に埋もれて行きます。

わざと足を引きずるように地面を擦って、まるでラッセル車のように、下道に積もった落ち葉を掻き分けて歩けば、乾いた空気と高い空の下に、枯葉の立てる音が響いたのです。

大きな欅の根元には、下道に通る風やらで吹き飛ばされた落ち葉が積み重なっているのですが、埋もれるようにそれを踏みしめて太い幹に抱きつき、木肌に耳を当てるのです。

すると、枝が擦れる音でもあるのか、キーキーとかコツコツという音が、幹を伝って耳に流れ込んで来て、まるで大きな欅と対話しているような気持ちにさせられたものでした。

その頃は枯葉もすっかり落ち尽くして、初冬の空が広々と見渡せたのです。

当時は極端に人と交わることをせず、いつも一人でいたものですから、その道の行き帰りを談笑して通ったなどということは一度もありませんでした。

その当時、毎夜のように繰り返し聴いていた、A.ルビンシュタインによるChopinのNocturne1番を耳にするなり、今ですら即座にその当時の私に押し戻されるものですから、それ故にその演奏を聴かないでいるほど、決して戻りたいとは思いませんし、もう一度歩いてみたいと思うのでもないのです。

それでもこの時期になるときっと、その道を一人で歩いている自分を思い出してしまうのは何故なのでしょう。決して、突き止めたいとなど思わないのですけれど。

さて、このところ2つの珍しい制作依頼を楽しんでいました。

ある脚本に、樫の木の葉を頭に挿し長寿を祈る場があり、死を前にした主人公が、『これから先のある若人は、平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、生きることを楽しみ、その命を輝かせるがよい。』と歌うのだそうですが、それを想わせる樫のひと枝が欲しいと言われるのです。

くま樫とは粗樫(アラカシ)のことのようですが、神聖な樫の木であり、それを髪に挿すというのは、神聖な生命力を身に取り入れ、長寿と豊穣を願う意味を持つのだとか。

幾つか団栗も付けて欲しいとの要望でしたので、木彫り彩色しました。

2つ目は、男児が着る夏物の狩衣(かりぎぬ)に、文様として絵付けをして欲しいという依頼でした。

絵は苦手な上に図柄も思い付かず、絽で端正に縫い上げられた狩衣を前にして、失敗出来ないなぁ⋯と眺めていて突然、平安末期に流行ったという、水干に松飾りの付け物をした者の姿を思い出したのです。

そもそもこの2体は、汗衫(かざみ)を着た女児の相手として誂られるのですし、ならば有職造花の桜橘を付け物にしたら、下手くそな絵よりも見映えがするに違いないのだし、何よりもかつて見たことない装束足り得るだろうと、直ぐに作って送ったのでしたが、色合いも上手く嵌り、何とも愛らしく仕上げられていたのでした。

あの忌々しい暑さから、僅かに1ヶ月余だというのに、秋は日に日に深まり、寒くすらなっています。
大好きなカシミヤのマフラーとオーバーを身に付けられるのも、あと少しなのでしょう。

エゴの花

樫の枝

服に松飾り

人形2体

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