珍しく、幅39cmと幅15cmの洲浜台による、大小2つの制作依頼があったのです。
大きな嶋台は、何しろ実際の婚礼に使うと言われるのですから、本来ならば幅60cmとかの洲浜台に載せる大きさが理想的でしょう。
しかし、残念ながら手元にはそんなサイズの洲浜台がなく、幅39cmのが辛うじて1台だけ残っているばかりですので、松の下枝を洲浜台の外にはみ出させて、何とか幅50cmのサイズに仕立てたのです。
嶋台とは言っても、祝言の場に飾ると言われるのですから、奈良蓬莱の役目も兼ねさせようと、橘と椿を加える提案をして、より蓬莱山の要素を叶えた嶋台に仕立てました。
小さな嶋台は、七番御引き直衣立像男雛女雛の間に置くためのものだそうで、幅5寸の洲浜台ですから、雛道具としてはそこそこの大きさなのですが、お決まりの蓬莱山ではなしに、松に蔓を巻かせた山藤が、薄紫の花房を下げる嶋台にして欲しいとの珍しい要望だったのです。
洲浜台が幅15cmとあっては、松の高さなどたかが知れていますから、強引なデフォルメを駆使してさえ、花房は5cmばかりなのです。
花房の殆どは、蕾に使う造花材料の粒で作るしかないのですが、どれほど小さかろうと、どこかに鏝当ての作業がされていなくては有職造花にならないという考えがありますので、正に最低限なのですが、花房の上部の最も開いた花にのみ、鏝当てした2~3mm程の花弁を補ったのです。
何とか松藤の風情は出たように思うのですが、それより私はよくよく蔓が好きで、だからこそ得意なのでしょうけれど、その自然な流れだけは誇れるのではないかと、また図々しく自画自賛しているのです。
昨年5月22日の『近頃のこと』に、『喫茶カペー』というのを書いたのですが、19歳という1年だけ交流を持てた友人のことに触れました。
今でいう『うつ』状態にあった18歳を経て、19歳になるとほぼ同時に上京したのでしたが、2ヶ月程した頃だったか、突然親しかった訳でもないその人から手紙が届いたのです。
それからというもの、悩まなくても良いことをわざわざほじり出してさえ悩むような10代の最後を、頻繁に行き来し出したのでした。
数年前ふと目に付いた卒業アルバムを開くなり、何だかゾッとしてゴミ袋に投げ捨てたのを機会に、病気のこともあり、油絵もデッサンも焼き捨て、日記や覚書の類まで、今の歩みに入る以前の何もかもを廃棄してしまったのですが、その友人からの手紙だけは捨てられなかったのです。
私にとって19歳という1年は、それが遥かな昔になればなるほど、今辿り着けている人生の原点だということを確認するばかりなのですが、その後全く接点のない別の人生を送ったにもかかわらず、友人はそこに居続けていたのです。
『喫茶カペー』を書いてから直ぐ、意を決して再会を望む手紙を投函したのですが、返事はありませんでした。
それも私達に流れた『時』の必然というものなのでしょうし、これで否応なしに『あの頃』とも決別する事になったのだろうと納得し始めていたつい先日、ポストに速達を見つけたのです。
友人から、半世紀ぶりの手紙でした。
実家に送った手紙が手元に届けられるのに時間を要した経緯に始まり、今に至るまでの仕事や生きて来た道程を記してくれた後に、是非会いたいという締め括りでした。
上京から1年を過ぎた早春、帰郷して春休みを楽しめるようになっていた私は、日に日に春めいて行く空に浮かび始める羊のような雲を、4号という小さなキャンバスに描いたことがありました。
はるかな遠景がグレーに膨らんで烟り出し、コバルト色に透き通った天空に至る中空が薄いセルリアンブルーになる頃、その季節ならではの羊雲が6つ浮かんだのを描いたのです。
寒さ続きでありながら、随分と良い天気だった17日、かつてイーゼルを立てた門口に人を送って出てみれば、あの日6つの雲が浮かんでいた遠景が、柔らかなグレーに烟り始めているのに気付きました。
いつの間にやら、春はそこまで来ていたのです。
見れば梅が1輪、裏山に開花しているのでした。